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ハンズオン・ヒーリングを一般社会に浸透させるために

 5月のヒーリングトレーニングのクラスを終えて、学生たちからのフィードバックなども含め、21 世紀におけるヒーリングとヒーラーのあり方などについて、これまで考えてきたこととともに何回かに分けてまとめていきます。なお試論というのは、発展途上 の考えを暫定的にまとめたものであることを意味します。

 「ヒーリング」という語自体、日本の社会においては曖昧な言葉です。現 在の日本でこの語が使用されるのは、いわゆる「癒し系」といった「ちょっと気分がよくなる」類の音楽の分類やグッズの宣伝文句として使われるのでなけれ ば、精神世界、ニューエイジ界にほぼ限られているといってもいいでしょう。

 そして精神世界系雑誌の広告などで「ヒーリング」と 称されている行為や内容の説明を見る時には、約束される結果の曖昧さ(あるいは非現実性)、施術者のトレーニングのレベルなどをはじめとして、健全な懐疑 心を持つ人にとっては不安や疑問を抱かせるものであることが少なからずあるというのが正直なところと思います。

 これに対して、 ヒーリング教育と普及の分野における私自身の興味、そして仕事の方向性は、ニューエイジ界の体質である反動的にこれまで積み重ねられてきた学問や医学を切 り捨てる方向ではなく、むしろ現代医学以前に存在していた大きな医学=癒しの方法論の流れの一環として、現代医学をもその中に統合し、さらに新しい時代の 真に統合された全体的(=ホリスティックな)医学といえるものの基礎を築く一助となりたい、という思いがあります。アメリカの脳神経外科医で精神科医でも あるノーマン・シーリー博士により提唱されているエネルギー医学の流れに沿うもの、といってもいいでしょう。

 そして「科学では理解しきれないもの」といった表現の中に逃げ込むのではなく、ヒーリングを体系化と臨床リサーチを通して健全な科学的思考と検証に耐えうるものとするための土台を敷いていくこと。

  ヒーリング(healing)という語の本来の意味は、その語源から引いて、自己の「全体」「本来の形」「完全な/完成された状態」になることです。この 広義の意味から見る時には、実際のところ、人間の活動の中で「ヒーリング」ではないものはありません。人間として生きること自体が、避け難くよりいっそう 本来の大きな高い自己に向けて歩んでいく道程であるからです。芸術も、音楽も、また日常の仕事や生活さえも、そのような理解と視点、態度から取り組まれる 時には、すべて大きな意味での「ヒーリング」になり得るのです。

 これに対してここで用いる「ヒーラー」という語は、より焦点を 絞った、仕事として「他者が自己を癒すのを援助する(とくにハンズオンヒーリング/生体エネルギー療法の)専門家」を意味します。ここでは大きな意味での ヒーリングについては「癒し」と呼び、狭義の意味でのヒーリングを「ヒーリング」と呼んで区別するようにします。

 この狭義の意 味のヒーリングという分野に置いても、現時点では様々な流派や方法論、ビジネスが玉石混淆に存在し、一概に「ヒーラー」といっただけではその人がどんなレ ベルでどんな仕事をしているのかまったく判断がつかない現状です(英語では普通名詞としてのヒーラー(癒し手)は、医師など医療に携わる人全般を指すこと も多い)。バーバラ・ブレナンのヒーリングスクールの設立はその意味で、ハンズオン・ヒーラーの職業専門学校を確立するというある意味では画期的な試みで した。OSVのヒーリング・トレーニングもまた、一定レベルの技術と倫理を持って安定して仕事のできるヒーラーを育てることをめざし、それによって専門領 域としてのヒーリングを確立する流れの一部となることを目的の一つとします。

 河合隼雄氏が臨床心理療法家の仕事について、日本 において心理療法の専門家の仕事が認められるまでに時間がかかったのは「誰でも熱意さえあればうまくゆくはずだとの考えが強く、専門家を拒否する傾向が強 くあった」と指摘し、療法家としての仕事は「訓練の積み重ねによってのみ可能となる。このことを知らず、相手に対して役立とうとか、援助しようとかの熱意 されあればうまくゆくと考えるのは、あまりに単純である。そのような甘い考えによって失敗をする人は、これまで数多くあった」と述べていますが、ヒーリン グの分野においてもこれはそのまま当てはまります。

 極端な例では、1日か2日のセミナーと「アチューンメント」さえ受ければ 「ヒーリング」や「エネルギーによって人の体や心を癒すことが可能」と称して、ネズミ講とまったく似てはいなくないようなビジネスのシステムを広げている 組織や個人もあります。楽でお手軽なものを好むのは人間の性で、実際これが事実ならばそれほどおめでたいことはありませんが、このようなセミナーのみを終 えただけで「人を癒す」仕事に従事する人があることに不安を感じるのは、私だけではないでしょう。

 (この「魔法のように」「誰 でもすぐできて」「努力がいらず」「すばらしい結果を得たい」願望も、対象関係論的に観察すると種々の分析ができますが、またの機会に譲ります。)あるい は逆に、このように軽い形で「ヒーリング」に関わる人の数が多くなるほど、真剣な治療モダリティ、人間の健康を複数レベルで支えるための優れた技術として のハンズオンヒーリングが社会からまともに受け取ってもらえない下地を作っているとも言えるでしょう。(癒しの方法として優れた可能性を持ちながら、 ニューエイジ的ファッション商業化によって、真剣な療法となる可能性を奪われてしまったモダリティがすでに幾つかあります。)

  実のところ、生きている人間なら誰でも(人により差はあれ)生体エネルギー場を持っています。両手を相手の体につけてエネルギーをつなげば、エネルギーは 高い方から低い方へ自然に流れるのです。これがロザリン・ブリエールによって創設され、バーバラ・ブレナン他多くのヒーラーや欧米の主要ヒーリングスクー ルによって踏襲されているエネルギー・キレーションの原理であり、この意味ではごく基本的な(=民間療法やホームケアレベルの)ハンズオンヒーリングには 専門的な訓練はいりません。ましてや高いお金を払って「アチューンメント」など受ける必要もありません。キレーションの原理をよく体得している教師から一 度体験指導を受ければよいのです。

 しかし基本的なエネルギーヒーリングが誰にでも学べると言ってしまうと、心理療法やカウンセ リングの場合とおなじように、「ではそれに善意と熱意さえあれば癒しが可能ではないか」という理屈に行き着きたがる人が出てきます。事実、癒しというのが 簡単な体調調整や「気持ちよく感じる」程度のことであれば、そう言えないことはないでしょう。また民間療法でも才能と経験のある人であれば、少々の病気な ら医者より手際よく治せるのと同じで、生体エネルギーを流したり操作することに関して才能のある人なら、専門教育を受けずともある程度の効果を出せること もあります。

 西洋医学の治療を受ける際にはもちろん正規の資格のある医師を訪れるが、「エネルギー」の問題については、「生ま れついて人を癒す能力がある」と自称する人や、1日や2日のセミナーのみを経てお金を取って仕事をしている人のところへでも出かけて行く人が多いのはなぜ か。これはまずヒーリングがそもそも「専門の治療分野」として確立されておらず、「ヒーリングを教える」教育機関や団体の水準も一定でない、それどころか 治療の理論についても多くのヒーラーや流派同士で一致しない、といった混沌とした現状があります。分野としての定義が曖昧で、教育レベルの水準や履修/研 修期間も一定せず、公的な認定資格も存在しない(これはアメリカでも同じですが)。

 フラワーエッセンスと同じで、訓練されたプラクティショナーの数がきわめて少ないため、「溺れる者はわらをもつかむ」式に「とりあえず広告を出している人のところへ」行かざるを得ないという現実もあるでしょう。

  それではなぜ才能のある人が民間療法的な形で仕事をしているだけではいけないのか。それがもちろん「悪い」訳ではありません。能力のある人はそれをフルに 用いるべきです。しかし、そのような形で仕事をするヒーラーしか存在しないことの限界、そしてそれによって作り出される西洋医学一般との乖離という問題が あります。

 第一に、長期にわたる一定水準の訓練を経ていないヒーラーの仕事にはむらがあり、またしばしば結果や経過の観察につ いて客観性を欠きます。また倫理的な認識とバウンダリ(境界)についての訓練のない場合には、クライアントとの関係が宗教的、支配的、あるいは共依存的な ものに陥ることがしばしばです。

 さらに自己の才能にのみ頼っている人は、後続のヒーラーの教育ができません。なぜ、どのように して治るのかというのが本人自身わからないか、ある程度の理屈はあっても、それが第三者にきちんと説明できる一貫性や体系を有しないものであることがほと んどだからです(極端な場合「神様が治してくださる」という一言でおしまい)。

 これもまた、このような神秘的治療自体が悪いと 言っているのではないのです。現にそのような神秘的な形ですばらしい仕事をしている人たちもあります。しかしこのような人たちの癒しは、信仰と結びついた 聖人やグルとしての仕事であり、そのような形で癒してもらうことで人々は、信仰を学びはしても、自己の体や病気の原因について理解することはなく、自己の 健康に責任を持つことを学ぶ訳でもありません。そこにはクライアントが長期的に健康を維持するために必要な、自己理解と精神的、感情的成長の機会が欠けて います。そして「病気」というのが自己の肉体とエネルギーシステムについてよりよく理解するための機会であるという視点から見た場合、神秘的な形の癒しに よっては、その機会は与えられず、活用されないのです。

 では、専門家としてのヒーラーの仕事が確立されるためには何が必要か。 まず、一定水準の教育と認定を提供できる教育機関が複数存在すること。そしてこれらの教育機関の間で、教育内容のレベルと、認定に値するヒーラーの条件に ついてある程度の一致を見ることが必要です。ある学校では半年の訓練、別の学校では5年というのでは、同じ「ヒーリングスクールを卒業してその学校の認定 を受けたヒーラー」といっても、技術水準やトレーニングのレベルに大きな差が出てきます。

 そしてその教育内容が体系だったもの で、科学や西洋医学とのインターフェイスを可能にするものであること。つまり神秘的、象徴的で曖昧な言葉ではなく、明確な言語でヒーリングの内容や患者の エネルギーシステムの観察内容について語り、他のヒーラーや医療関係者と話し合い協力し合うことができるものであること。これができない場合には、ヒーリ ングと現代医学の間に橋を築くことができません。ただ「宇宙エネルギーを流しているんです」では、医療関係者と協力して仕事をすることはできません(この 場合は大体本人にも自分が何をやっているかわかっておらず、神秘的な表現はその逃げ場であることが大半ですが)。

 さて、一定レ ベルのヒーラーが一定数社会に出て仕事を始め、その仕事を通して臨床データの収集やリサーチが組織的に行われれば、ヒーリングの効果の裏付けといった大局 的なテーマから、さらには個々の病気ごとの治療プロトコール(どのような病気には一般にどのようなエネルギーレベルの問題が見られるかをまとめ、その治療 の指針を述べるガイドライン)の作成が可能になっていきます。この時点で、ヒーリングが真に社会に浸透していき、「ヒーラー」がエネルギー治療の専門家と して認められるための下地が築かれると言ってよいでしょう。

 広く社会に認められるためには、科学の検証に耐えるデータの積み重 ねが必要であり、その収集は時間のかかる仕事です。しかし例えば現在少なくとも欧米では一般的に普及している精神療法にしても、最初はフロイトという一人 の精神科医の洞察と治療努力から始まり、その治療成果と理論の体系化、そしてやはり小さな私的サークルから始まった教育努力をもとに、現在では公認の専門 資格として普及するまでに到っています。同じようにヒーラーの仕事が公的に認知されるのも、単なる夢ではありませんが、それには地道で組織的な努力と長期 的なコミットメントが必要です。

 さて、これまではもっぱら技術的、専門領域的な面からヒーリングのあり方について触れてきまし たが、一方で、ヒーラーの教育に欠かせない側面として、自己の癒し、人格と感情面での成熟、そして精神性の体現(自己存在の肉体面と精神面の統合)という 点があります。これらはある意味で、現代医学からは切り離されている要素です。

 医者であることが神聖な務めであった古代から遠 く離れて、現代は知識さえ豊富なら、あとは「いかに症状を消すか(見えなくするか)」「いかに壊れている部分を修理するか(あるいは切り取るか)」にたけ ていればよいとされる時代で、ましてや医師の感情面での成熟度や精神性などは問われません。ホリスティック医学の論客たちにより繰り返し指摘されてきたよ うに、人間を機械と見なし、それをいかに修理するかに医療という専門領域の焦点を絞った結果です。そうしてそこから現代医療の様々な弊害が発生しているの も事実です。

 そのような場に、精神と肉体を統合する視点を持ち、またその視点から説得力のある治療を行うことのできるヒーラー が足を踏み入れることができれば、現代の医学界は大きく変わって行くでしょう。西洋医学を切り捨てるのではなく、そこに本来あるべき精神的な価値観を吹き 込むことで、あるべき姿を取り戻させるのです。しかしながら、これができるためには当然のことながら、ヒーラー自身がその価値観を体現していなければなり ません。そうして治療成績を上げることができるだけの技術レベルと、自己の仕事について説明できるだけの生体エネルギー/チャクラシステムとその機能につ いての理解と理論的背景も持っていなければなりません。

 古代ギリシャでは「ヒポクラテスの誓い」にも見られたように、医師の仕 事が神聖な務めとして受けとめられ、東洋にも「医は仁術」と心得られた時代がありました。もちろん現代でも、無医村に志願して出かけていく医者や、フラン スの「国境のない医師団」のように世界各地の紛争地域や難民キャンプで活動する人たちもいますが、アメリカ医学界の大勢は「ビジネス」としての「医療」に 傾き、日本でも治療が機械的、物質的なものに偏っているのも事実です。

 ニューエイジ界はニューエイジ界で、先に挙げたようにお 手軽ビジネスとしてヒーリングの類似品を普及することで、「精神性の皮をかぶった物質主義」とでも呼びたい風潮の普及に手を貸している面もあります。しか しこのような立場からは、現代医学を批判することはできません。「愛さえあればすべてはうまくいく」というのはニューエイジャーの好む信条でもあります が、「愛がある」ことは智恵を磨かないことの言い訳にはなりません。

 私にとってのヒーラーの道のりの核心は「慈悲」の心である ことを以前にも述べましたが、愛(あわ)れみ慈(いつく)しむ思いがあるからこそ、他の生命を生かすための知恵を身につけようと望み、またその智恵を実行 に移すための意志を磨くのです。智恵のない愛は盲目であり、意志のない愛は車輪のない車のようなもので、愛/感情、智恵/理性、そして意志、このいずれが 欠けても人間の活動はバランスのとれたものとはならないのです。

 再び定義に戻れば、ヒーリングとは、生命が「完全な、完成され た、全体的な状態」になるのを助けることです。ハンズオンヒーリングとは、そのために、遺伝、生育環境や教育、社会状況、トラウマを含むさまざまな条件に よって固定されたエネルギーのパターン(ブロック)が成長の過程を阻害している場合に、そこに介入し、滞っている生命の流れを再度目覚めさせ、それによっ て生命が再度、完成された状態を目指して成長し続けるのを可能にするための「方法」です。

 この視点からはヒーラーは、「生命は 自己回復能力を持ち、自己成長の可能性を秘めていること、限りなく成長を続け、より大きく完成された自己を体現することが生の目的であること」を認め、そ れを真理として自分自身、生きることをしなければなりません。それによってはじめて、個々の生命を全体的な視野から見、効率的な形で介入し、本来のあるべ き形を思い出させ、また新しく健全なエネルギーのパターンを導入する手助けができるのです。

(ウェブサイト掲載の日誌より抜粋)(2001年)

2000年11月某日

 カナダから帰ってきて、いまだやや気分高揚状態である。こんなに楽しく充実した時間を過ごしたことは(ワークショップを教えている間を別にして)近年あまりない。

  何をしに暖かなフロリダを出て北風の吹くカナダ(緯度だけ見れば北海道よりさらに北)まで出かけてきたかというと、ロザリン・ブリエール(以下RB)の率 いるヒーラーのグループに加わり、社会奉仕プログラムの一環として、ネイティヴの人たちを対象にヒーリングを行いにいっていた。私がBBSHを去った後に RBのところに出入りしてきたのは、年に1度のこのプログラムに参加し、奉仕活動としてのヒーリングに携わり、同時にこのようなプログラムを日本あるいは アジアで運営するためのノウハウを身につけたかったのが何より大きな理由だった。

 毎日朝の9時半に集合、その日のブリーフィン グや先日からの注意事項などの伝達を受け、10時を過ぎた頃から仕事が始まり、遅い日は夜11時頃まで、食事時間を除いて休みなしでヒーリングを行う。そ の場に訪れてきた人はネイティヴ(日本ではまだ「インディアン」とも呼ばれているが、もっとも正しい呼称は「ファーストネイション」)の人々でありさえす れば、誰でも無料でヒーリングが受けられる。患者が1人でも残っている限り真夜中になっても仕事を続ける、というのがコミットメントだったが、さすがにそ んなに遅くまで待つ人はいなかった。重症過ぎて会場にこられない人や入院中の人のためには2組のチームが往診治療に派遣された。

  選抜されて参加したヒーラーは5人1組でチームを組み、5日間で治療した患者のべ800人以上。肩こり、古傷、喘息などから糖尿病や胆石、白内障、ガンの 療養中、麻薬やアルコール中毒から回復中の人、生後数ヶ月の赤ちゃんからお年寄り、地元のギャングにいたるまで、ありとあらゆる年代層と病気が出そろう。

  ヒーラーはヒーラーで、各自のスタイルや方法論の違い(そしてエゴやプライド)を手放し、チームとして一体となり、一人の患者のために自分の持ち場を守っ て最善を尽くすことを学ぶ。一定水準のヒーラーがなにしろ5人がかりで治療に当たるのだから、効果はパワフルだ。患者一人につき40分以内がターゲット セッション時間、そして多くの場合、即座に目に見えて症状が軽減していく。

 とくに私にとって貴重だったのは、訪れる人々のほと んどが「(アメリカではやっているらしい)エネルギーヒーリング」などというものについて何も知らず、ただ口伝えで「病気が治るらしい」とだけ聞いてやっ てきたということだ。ヒーリングについて前もっての知識は何もなく、ただ「病気が治るかもしれない」というシンプルな期待だけを抱いてテーブルに横たわる 人々。そして現にそのような人たちの症状を軽減させあるいは治療に導けるという、ある意味では純粋な形で病気治療に携わる喜びである。

 そしてもちろん、アメリカでもカナダでも200年以上の迫害の歴史をくぐり抜け、今も社会的に苦闘するファーストネイションの人々、さらにその子供たちやお年寄りという、もっとも切実に必要とされるところに癒しのエネルギーを届けることができるという喜びもある。

  会場となったのはスクワミッシュ・ネイションのリザヴェーション(ネイティヴの人たちのテリトリー)内にある体育館。急ごしらえに並べられたテーブルやイ スの回りを、順番待ちに退屈した子供たちが叫びながら走り回るわ、セッション中のヒーラーたちの後ろに立って作業をじっと観察する人はいるわ(ハンズオン ヒーリングというのはネイティヴの人たちにとってもかなり怪しいものなのである)、その中をライムグリーンの運動靴を履いたRBが元気に走り回り、テーブ ルごとに注意や指示を与えて回る。

 そう、私が本当にいたかったのは、会場からイスの並び方一つに到るまで完璧に設定されて美し い音楽のかかる中、みんなでトランスに入って「すばらしい精神的経験」をする場ではなく、この体育館のような雑多な環境の中で、朝から晩まで立ちっぱなし で病気の人々と接し、その痛みをやわらげ、より大きな癒しのサイクルの一部となれる、そういう場だったのだと改めて思った。

 そしてこういう形、こんなレベルで仕事のできるヒーラーを10人でも20人でも日本に育てることができれば、幸せだと思った。

(アッシジの聖フランシスコの祈り)

主よ、我を汝の平和の使いとなしたまえ
憎しみのあるところに愛を
苦痛のあるところに許しを
不和のあるところに調和を
疑いのあるところに信頼を
誤りのあるところに真実を
絶望のあるところに希望を
悲しみあるところに喜びを
暗闇のあるところに光を
もたらさんがために

慰められることよりも慰めることを
理解されることよりも理解することを
愛されることよりも愛することを
我に求めせしめたまえ

与えることにより 人は受けとり
許すことにより 人は許され
死ぬことを通してこそ
人は永遠の生に生まれ変わらんがためなり。

(英語テキストからの翻訳/王由衣)

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