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自然、生と死、季節の巡り

<チャネリング・メッセージ>

自然環境を担当するデーヴァ

 自然環境の調和と健全さを担当する私の視点からは、生命同士の関りは、つねに相対的なものとして、より大きな視野から捕らえられるものです。すなわち、個々の個体が生態系内において占める位置と価値は、つねに全体としての自然との関りのうちに、見られなければならないのです。

 生態系内において、また進化の流れ自体においても、個々の生命はしばしば、全体の、また自らが属する種の『捨て石』あるいは『踏み石』となることがあります。それによって必要な変化が引き起こされ、あるいは諸条件が維持され、より大きな調和と均衡、あるいは進化のステップが可能となるためです。この現象面だけを人間の限られた知性と認識で解釈するなら、『自然とは過酷なもの』ということになるで しょう。けれども、そのような『捨て石』ないし『踏み石』となる個体は、より深いレベルでの自然法則とのつながりにおいて、そのことをよしとして自らを供 することに同意しているのです。これが愛、人間が一般に理解するよりも、より深く根源的な意味で生命の内を流れる愛というものの本質的な表れです。そしてその愛は自然法則の側からも個々の生命に対する育みの力、慈しみとして流れる、双方向のものです。このような生命の土台としての根源的な愛なしには、物質 レベルでの生命形態自体が成り立たないことに気付いてください。

 そして、種と種との葛藤が問題となる時(実際にはそれは葛藤では ないのですが、人間の視点からはこう理解されるのです)、たち帰らなければならない視点は、これです。自己の経済的利害やテリトリー維持の問題に神経を逆立て、あるいは頭を悩ませる前に、まず、問題の本質に帰っておいでなさい。すなわち、私の視点からは、こういう質問に置き換えることもできます『より大きな環境全体を見渡し、そこに一層の調和を、より健全で成熟したレベルで築くために、あなたはどのような個人的犠牲を払う準備がありますか』と。そしてその『犠牲』はもちろん、本当は犠牲ではないのです。他者に強いられて払う代価は犠牲ですが、自らが愛をもって自由意志から選択する時、それは『捧げ物』、 『贈り物』となるのです。

 この意味で、人間が種として成熟するための次のステップは、生命に内在する根源的な愛を、意識的な形で理解し体現し始めることだと言ってもよいでしょう。

生と死の巡りを司るデーヴァ

 死とは、収穫の時期だ、と考えてみるがよい。生命が物質世界に形をとり、育ち、経験を積み重ね、そうしてたくさんの煩雑な経験をより分け、もっとも本質的な学びと智恵の精髄(エッセンス)を手に、次の成長段階へと旅立つためのその中継ぎ地点でもあると。

 あたたかな思い出、幸せの経験を、もう一度味わい直し、悔いの残る経験についてはそれがなぜか、今、それを変えることはできないかを振り返り、変えることのできないものは静かに手放し、変えることのできるものは変える最後のチャンスと。

  動物は自らの死の時期を知っている。そうしてそのタイミングを個体の経験と種の智恵を合せもって選ぶ。一見事故死や不測の死と見えるものも、多くは計画と 選択によるものだ。だが人間は、とりわけてその動物を愛した人間は、この選択の意図や内容が見えない。そうしてしばしばその死にこだわりまた自らを責め、 学ばれるべきレッスンは取り残されることになる。

 人よ。生を選んだその時点で、すべての生命は同時に、死を受け取ることに同意し ているのだ。どうして自らの種のみが死について考え理解することができると考える? むしろ生命の智恵から切り離されていない動物たちは、よく死ぬことを も忘れていない。だがその過程、とりわけ病気が関る際に、その死の旅路を難しくするのは、人がその動物の生と死に込められた意味を読み取れない時だ。ある いはささいなことにばかり、自分の感情を投影し過ぎ、本質的なテーマを見落とす時だ。

 今も心を去らぬ動物との別れがあるだろう か。悲しい思い、つらい思い、また悔しい思いがあるだろうか。ならば、もう一度その思い出を訪れ、何が本質的なメッセージだったのかを自らに訊ねつつ、経 験を再体験してみるがいい。自らのいたらなさから来る後悔? 後悔せよというのはその動物からの本質的なメッセージではなかったはずだ。わかっていながら するべきことをしなかった、そのような時に後悔の念は生まれる。ならば、メッセージは、自らの直感を信じ、なすべきことは実行せよ、ということだ。次にそ のような場面に出会ったなら、同じ間違いを繰り返すな、ということだ。「こうしてあげることができたなら」と悔いるなら、次には悔いずにすむように、今目 の前にいる生命に感じたままに愛情を注ぎ、ともに満ち足りて生きよ、ということだ。

 動物は生命の本質的な智恵に満ちている。だが彼らは言葉を通しては語らない。かわりに自らの体を、行動を、生と死を通して語る。そのような形で語られる智恵に耳を傾けよ。

 そうして痛みを、悲しみを恐れるな。愛する限り、深く感じる限り、これらはついてまわるもの。生が死と切り離されては存在しないように。愛さなければ、愛するものを亡くす悲しみも経験しないだろうが、それは死を恐れて生まれてくることを避けるようなものだ....

生の循環を司るデーヴァ

変容 — 季節と時の巡りについて

 変化とはすばらしいものではないか?! 人よ、心してあれ。

 何かを忘れ始めた時、何かを見失い出した時、魂が鋭敏であるほどに、道のりをより遠くまで歩み通してきたほどに、メッセージはすばやくやって来る。長くは眠り続けることはできない。

 ああ、そして変化とはすばらしいものではないか?! 季節の巡りなしには、必ず訪れる厳しい冬なしには、春のあたたかさ、夏のまぶしさ、秋の豊かさを存分に感じることを人は忘れるだろう。そして冷たい風の吹く冬の中にも、小さな日だまりを見つけることができる。

  そのように、変わる季節にしなやかに身を沿わせ、その巡りをよろこびをもって迎えることを学べ。全身全霊をもって、ありとあらゆる感覚をもって、季節の与 える贈り物を十分に受け取るがいい。自己を開き、優しい春風も痺れる北風、西風も、同じように感覚を深く、広く開いて受け入れるのだ。

  一人の人間が別の人間に伝えられる智恵の中で、自然が与えることのできないものは一つもない。目を開き知性を開き魂を開いて見つめるなら、宇宙の万象を理 解するためのすべての智恵が、そこにある。人間はその無限の智恵の幾分かを切り取り、小さな箱に押し詰めて「科学」「知識」等と呼んでいるに過ぎない。

  魂よ、おまえに形を与えているのは自然であることを忘れるな。そして形ある限り、おまえは自然の一部であることを忘れるな。その内に無限の智恵を秘めて、 なお我らの一部であることを。人は自然から切り離されたことなどない。そんなことは不可能なのだ、たとえどれほどあがこうとも!

  何かに絶望する前に自らの手を見よ、足を、鏡の向こうにのぞく二つの瞳を。この生命の精妙さ、形に込められた自然の法則を。このような体に形とらせ、完璧 なリズムをもって心臓をうたせ、呼吸させるためには、どれだけの偶然が法則の網目通して濾されなければならなかったか、知っているか。

  そして季節の巡りに精密に対応するリズムをもって、この体が、また魂が、自らが自然の一部であることを認め、よろこびにうちあふれるのを、今、意識を通し て認めよ。体は忘れたことはない、魂は忘れたことはない。ただ人としての小さな自我のみが、自らを自然から独立のものと誤って考える。

  ああ、人よ、一つところに留まるな。自然が教えることのできる最大の智恵はそれだ。一つ形に留まるな。限りなく変態を重ねる無限の生命らしく、眠り、目覚 め、新たな形のうちに翼を広げよ、手足を伸ばせ。変化が滞った時にのみ死は訪れる。そうして死は一つのメッセージに過ぎない、「次なる変化、新たなる段階 が待っている」との。

(1996年)

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