01. 道程(みちのり) 光を運ぶ

フランツ・バードン 20世紀の最良のアルケミスト

フランツ・バードン
20世紀のアルケミスト、近代ライトワーカーの先駆け

 今回は、近代ライトワーカーの先駆けとも言える、チェコスロヴァキアのアルケミスト、フランツ・バードン(1909 - 1958)について紹介しておく。

 バードンは20世紀有数の優れたアルケミストであり、彼の体系は近代の魔術やアルケミー研究者によって借用されているが、バードン本人の名前や存在は、一般にはほとんど知られていない。

 彼の体系の中には、伝統的な西欧魔術に根ざす知識や方法論も含まれているが、道教、チベット神秘主義やヴェーダ哲学などの東洋思想にも造詣のあったバードンは、その宇宙観や哲学の中から普遍的な部分を汲み上げ、伝統的なアルケミーの方法論と組み合わせて、一つの体系を作り上げた。

 重要なのは、彼が魔術を「魔術師の意のままに外的な世界を支配する方法」としてではなく、「自らの内なる光につながり、強め、それを顕現させるための道程」として明確に捕らえていたことである。

 この点で、彼はいわゆる古い形の魔術師の系譜から一線を画し、魔術師・アルケミストと近代のライトワーカーの中間に位置する、あるいは近代のライトワーカーの先駆けだったとも言える。

 同時に彼は、教団やロッジに属することを修行の条件とした当時の魔術のシステムから離れ、まだ適切な教師を見つけていない真剣な志願者のための修行体系を作り上げ、著作を通して公開した。これは今でこそそれほど珍しくないが、当時は型破りな行為だった。

 もちろん、その修行は、現代の「誰でもできるお手軽○○」とは比べようもない、自己規律、道程へのコミットメント、長期の鍛錬を前提とするものだ。

 しかし当時の魔術界に広がっていた芝居がかった、おどろおどろしい部分をすっぱり切り捨て、自らの体験と実験をもとに、ひたすら実用性を重視して整理された体系という意味では、彼のシステムは、W. E. バトラーのそれと並び、きわめて近代的と言える。

バードンの生涯

 バードンは、アレイスター・クローリーのような自己顕示型の魔術師の対極にあり、自分自身のことについてほとんど書き残していない。そのため、彼の生涯についての情報は非常に限られている。

 1909年、現在のチェコスロヴァキア生まれ。父親は熱心なキリスト教神秘主義派の信者。成年になってからは最初は技師として働き、また1920年から1930年の一時期、「フラバート」の名前で奇術師としても舞台に立ち、それなりの人気を博した。

 1930年、ヒトラーとナチスが権力を握り、当時のチェコを含むドイツの支配圏では、黄金の夜明け団やフリーメイソンの活動が禁じられ、メンバーが迫害、拘束、処刑され始めた。(ヒトラー自身は黒魔術教団テューレ協会のメンバーだったとされる。)

 このような状況下、バードンの弟子の一人が、破棄するよう言われていた書簡を破棄せず、それが当局に発見されて、バードンとその弟子は1941年末ないし1942年はじめに逮捕、投獄され、拷問を受ける。その過程で精神的に追いつめられた弟子は、獄吏に魔術をかけようとして銃殺される。

 バードン自身はヒトラーから、魔術を使って戦争に勝つのを助ける条件でナチス政府における地位を約束されるが、それを拒み、3年半の間、収容所で過酷な拷問にかけられた。

 1945年、終戦の直前、バードンは死刑を言い渡される。しかし刑の執行前に収容所が爆撃で破壊され、ロシア人の捕虜らに助けられて逃亡し、終戦まで身を隠した。

 終戦後、故郷に戻ったバードンは、ナチュロパス(自然療法医)として、アルケミーとヒーリングの活動を再開し、またアルケミーの教えを普及することに努めた。

 優れたヒーラーでもあった彼は、アルケミーの方法論に基づく治療法と植物から作った薬で進行性のガンも治すことができたとされる。他方でこれが医師らの妬みと反感を買い、後の政府への密告につながったとも言われる。

 1956年、著書を出版し、多くの人が国外からも彼を訪れるようになった。

 しかし当時のチェコ共産政府は異端分子の激しい粛正を行っており、フリーメイソンや魔術の研究者もその対象になっていた。

 バードンは、レメディを作るのに「用いたアルコールについて税金を払わなかった」として、また「西側と通じスパイとして働いた」罪で告発され、1958年7月に逮捕。その後、刑務所の病院で「普通でない状況で」死亡した。

 バードン自身は「どのような魔術ロッジや教団にも属していない」と主張していたが、ある資料によれば、20世紀前半にドイツに広がっていた「土星同胞団」ロッジのメンバーだったとされる。同胞団はナチスの弾圧により1933から37年頃に閉鎖され、1950年に復興されている。

 バードンは、アルケミストの修行において、以下のような点を強調した。

 四大元素を使いこなすためには、自分自身の中の四大元素を調和し、制御しなければならない。そしてまた集中力、意志の力、揺るがない確信が必要である。

 自分自身の中の特定の元素が弱かったり強過ぎたりすると、どれほど四大元素に働きかけても、大きな結果を得ることができない。

 このため、実際のアルケミーの作業に取り組む前に、深く自己を観察、分析する習慣を身につけ、実践することが必須である。

 一定期間にわたり、容赦なく正直に自己を見つめ、行動のパターン、長所と欠点について記録する。そしてこれらを四大元素のカテゴリーに基づいて分類し、理解することが、自己の内的バランスを築く最初のステップになる。

(『ヒーラー&アルケミスト』2006年3月号に掲載、2014年6月加筆)

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ハンズオン・ヒーリングを一般社会に浸透させるために

 5月のヒーリングトレーニングのクラスを終えて、学生たちからのフィードバックなども含め、21 世紀におけるヒーリングとヒーラーのあり方などについて、これまで考えてきたこととともに何回かに分けてまとめていきます。なお試論というのは、発展途上 の考えを暫定的にまとめたものであることを意味します。

 「ヒーリング」という語自体、日本の社会においては曖昧な言葉です。現 在の日本でこの語が使用されるのは、いわゆる「癒し系」といった「ちょっと気分がよくなる」類の音楽の分類やグッズの宣伝文句として使われるのでなけれ ば、精神世界、ニューエイジ界にほぼ限られているといってもいいでしょう。

 そして精神世界系雑誌の広告などで「ヒーリング」と 称されている行為や内容の説明を見る時には、約束される結果の曖昧さ(あるいは非現実性)、施術者のトレーニングのレベルなどをはじめとして、健全な懐疑 心を持つ人にとっては不安や疑問を抱かせるものであることが少なからずあるというのが正直なところと思います。

 これに対して、 ヒーリング教育と普及の分野における私自身の興味、そして仕事の方向性は、ニューエイジ界の体質である反動的にこれまで積み重ねられてきた学問や医学を切 り捨てる方向ではなく、むしろ現代医学以前に存在していた大きな医学=癒しの方法論の流れの一環として、現代医学をもその中に統合し、さらに新しい時代の 真に統合された全体的(=ホリスティックな)医学といえるものの基礎を築く一助となりたい、という思いがあります。アメリカの脳神経外科医で精神科医でも あるノーマン・シーリー博士により提唱されているエネルギー医学の流れに沿うもの、といってもいいでしょう。

 そして「科学では理解しきれないもの」といった表現の中に逃げ込むのではなく、ヒーリングを体系化と臨床リサーチを通して健全な科学的思考と検証に耐えうるものとするための土台を敷いていくこと。

  ヒーリング(healing)という語の本来の意味は、その語源から引いて、自己の「全体」「本来の形」「完全な/完成された状態」になることです。この 広義の意味から見る時には、実際のところ、人間の活動の中で「ヒーリング」ではないものはありません。人間として生きること自体が、避け難くよりいっそう 本来の大きな高い自己に向けて歩んでいく道程であるからです。芸術も、音楽も、また日常の仕事や生活さえも、そのような理解と視点、態度から取り組まれる 時には、すべて大きな意味での「ヒーリング」になり得るのです。

 これに対してここで用いる「ヒーラー」という語は、より焦点を 絞った、仕事として「他者が自己を癒すのを援助する(とくにハンズオンヒーリング/生体エネルギー療法の)専門家」を意味します。ここでは大きな意味での ヒーリングについては「癒し」と呼び、狭義の意味でのヒーリングを「ヒーリング」と呼んで区別するようにします。

 この狭義の意 味のヒーリングという分野に置いても、現時点では様々な流派や方法論、ビジネスが玉石混淆に存在し、一概に「ヒーラー」といっただけではその人がどんなレ ベルでどんな仕事をしているのかまったく判断がつかない現状です(英語では普通名詞としてのヒーラー(癒し手)は、医師など医療に携わる人全般を指すこと も多い)。バーバラ・ブレナンのヒーリングスクールの設立はその意味で、ハンズオン・ヒーラーの職業専門学校を確立するというある意味では画期的な試みで した。OSVのヒーリング・トレーニングもまた、一定レベルの技術と倫理を持って安定して仕事のできるヒーラーを育てることをめざし、それによって専門領 域としてのヒーリングを確立する流れの一部となることを目的の一つとします。

 河合隼雄氏が臨床心理療法家の仕事について、日本 において心理療法の専門家の仕事が認められるまでに時間がかかったのは「誰でも熱意さえあればうまくゆくはずだとの考えが強く、専門家を拒否する傾向が強 くあった」と指摘し、療法家としての仕事は「訓練の積み重ねによってのみ可能となる。このことを知らず、相手に対して役立とうとか、援助しようとかの熱意 されあればうまくゆくと考えるのは、あまりに単純である。そのような甘い考えによって失敗をする人は、これまで数多くあった」と述べていますが、ヒーリン グの分野においてもこれはそのまま当てはまります。

 極端な例では、1日か2日のセミナーと「アチューンメント」さえ受ければ 「ヒーリング」や「エネルギーによって人の体や心を癒すことが可能」と称して、ネズミ講とまったく似てはいなくないようなビジネスのシステムを広げている 組織や個人もあります。楽でお手軽なものを好むのは人間の性で、実際これが事実ならばそれほどおめでたいことはありませんが、このようなセミナーのみを終 えただけで「人を癒す」仕事に従事する人があることに不安を感じるのは、私だけではないでしょう。

 (この「魔法のように」「誰 でもすぐできて」「努力がいらず」「すばらしい結果を得たい」願望も、対象関係論的に観察すると種々の分析ができますが、またの機会に譲ります。)あるい は逆に、このように軽い形で「ヒーリング」に関わる人の数が多くなるほど、真剣な治療モダリティ、人間の健康を複数レベルで支えるための優れた技術として のハンズオンヒーリングが社会からまともに受け取ってもらえない下地を作っているとも言えるでしょう。(癒しの方法として優れた可能性を持ちながら、 ニューエイジ的ファッション商業化によって、真剣な療法となる可能性を奪われてしまったモダリティがすでに幾つかあります。)

  実のところ、生きている人間なら誰でも(人により差はあれ)生体エネルギー場を持っています。両手を相手の体につけてエネルギーをつなげば、エネルギーは 高い方から低い方へ自然に流れるのです。これがロザリン・ブリエールによって創設され、バーバラ・ブレナン他多くのヒーラーや欧米の主要ヒーリングスクー ルによって踏襲されているエネルギー・キレーションの原理であり、この意味ではごく基本的な(=民間療法やホームケアレベルの)ハンズオンヒーリングには 専門的な訓練はいりません。ましてや高いお金を払って「アチューンメント」など受ける必要もありません。キレーションの原理をよく体得している教師から一 度体験指導を受ければよいのです。

 しかし基本的なエネルギーヒーリングが誰にでも学べると言ってしまうと、心理療法やカウンセ リングの場合とおなじように、「ではそれに善意と熱意さえあれば癒しが可能ではないか」という理屈に行き着きたがる人が出てきます。事実、癒しというのが 簡単な体調調整や「気持ちよく感じる」程度のことであれば、そう言えないことはないでしょう。また民間療法でも才能と経験のある人であれば、少々の病気な ら医者より手際よく治せるのと同じで、生体エネルギーを流したり操作することに関して才能のある人なら、専門教育を受けずともある程度の効果を出せること もあります。

 西洋医学の治療を受ける際にはもちろん正規の資格のある医師を訪れるが、「エネルギー」の問題については、「生ま れついて人を癒す能力がある」と自称する人や、1日や2日のセミナーのみを経てお金を取って仕事をしている人のところへでも出かけて行く人が多いのはなぜ か。これはまずヒーリングがそもそも「専門の治療分野」として確立されておらず、「ヒーリングを教える」教育機関や団体の水準も一定でない、それどころか 治療の理論についても多くのヒーラーや流派同士で一致しない、といった混沌とした現状があります。分野としての定義が曖昧で、教育レベルの水準や履修/研 修期間も一定せず、公的な認定資格も存在しない(これはアメリカでも同じですが)。

 フラワーエッセンスと同じで、訓練されたプラクティショナーの数がきわめて少ないため、「溺れる者はわらをもつかむ」式に「とりあえず広告を出している人のところへ」行かざるを得ないという現実もあるでしょう。

  それではなぜ才能のある人が民間療法的な形で仕事をしているだけではいけないのか。それがもちろん「悪い」訳ではありません。能力のある人はそれをフルに 用いるべきです。しかし、そのような形で仕事をするヒーラーしか存在しないことの限界、そしてそれによって作り出される西洋医学一般との乖離という問題が あります。

 第一に、長期にわたる一定水準の訓練を経ていないヒーラーの仕事にはむらがあり、またしばしば結果や経過の観察につ いて客観性を欠きます。また倫理的な認識とバウンダリ(境界)についての訓練のない場合には、クライアントとの関係が宗教的、支配的、あるいは共依存的な ものに陥ることがしばしばです。

 さらに自己の才能にのみ頼っている人は、後続のヒーラーの教育ができません。なぜ、どのように して治るのかというのが本人自身わからないか、ある程度の理屈はあっても、それが第三者にきちんと説明できる一貫性や体系を有しないものであることがほと んどだからです(極端な場合「神様が治してくださる」という一言でおしまい)。

 これもまた、このような神秘的治療自体が悪いと 言っているのではないのです。現にそのような神秘的な形ですばらしい仕事をしている人たちもあります。しかしこのような人たちの癒しは、信仰と結びついた 聖人やグルとしての仕事であり、そのような形で癒してもらうことで人々は、信仰を学びはしても、自己の体や病気の原因について理解することはなく、自己の 健康に責任を持つことを学ぶ訳でもありません。そこにはクライアントが長期的に健康を維持するために必要な、自己理解と精神的、感情的成長の機会が欠けて います。そして「病気」というのが自己の肉体とエネルギーシステムについてよりよく理解するための機会であるという視点から見た場合、神秘的な形の癒しに よっては、その機会は与えられず、活用されないのです。

 では、専門家としてのヒーラーの仕事が確立されるためには何が必要か。 まず、一定水準の教育と認定を提供できる教育機関が複数存在すること。そしてこれらの教育機関の間で、教育内容のレベルと、認定に値するヒーラーの条件に ついてある程度の一致を見ることが必要です。ある学校では半年の訓練、別の学校では5年というのでは、同じ「ヒーリングスクールを卒業してその学校の認定 を受けたヒーラー」といっても、技術水準やトレーニングのレベルに大きな差が出てきます。

 そしてその教育内容が体系だったもの で、科学や西洋医学とのインターフェイスを可能にするものであること。つまり神秘的、象徴的で曖昧な言葉ではなく、明確な言語でヒーリングの内容や患者の エネルギーシステムの観察内容について語り、他のヒーラーや医療関係者と話し合い協力し合うことができるものであること。これができない場合には、ヒーリ ングと現代医学の間に橋を築くことができません。ただ「宇宙エネルギーを流しているんです」では、医療関係者と協力して仕事をすることはできません(この 場合は大体本人にも自分が何をやっているかわかっておらず、神秘的な表現はその逃げ場であることが大半ですが)。

 さて、一定レ ベルのヒーラーが一定数社会に出て仕事を始め、その仕事を通して臨床データの収集やリサーチが組織的に行われれば、ヒーリングの効果の裏付けといった大局 的なテーマから、さらには個々の病気ごとの治療プロトコール(どのような病気には一般にどのようなエネルギーレベルの問題が見られるかをまとめ、その治療 の指針を述べるガイドライン)の作成が可能になっていきます。この時点で、ヒーリングが真に社会に浸透していき、「ヒーラー」がエネルギー治療の専門家と して認められるための下地が築かれると言ってよいでしょう。

 広く社会に認められるためには、科学の検証に耐えるデータの積み重 ねが必要であり、その収集は時間のかかる仕事です。しかし例えば現在少なくとも欧米では一般的に普及している精神療法にしても、最初はフロイトという一人 の精神科医の洞察と治療努力から始まり、その治療成果と理論の体系化、そしてやはり小さな私的サークルから始まった教育努力をもとに、現在では公認の専門 資格として普及するまでに到っています。同じようにヒーラーの仕事が公的に認知されるのも、単なる夢ではありませんが、それには地道で組織的な努力と長期 的なコミットメントが必要です。

 さて、これまではもっぱら技術的、専門領域的な面からヒーリングのあり方について触れてきまし たが、一方で、ヒーラーの教育に欠かせない側面として、自己の癒し、人格と感情面での成熟、そして精神性の体現(自己存在の肉体面と精神面の統合)という 点があります。これらはある意味で、現代医学からは切り離されている要素です。

 医者であることが神聖な務めであった古代から遠 く離れて、現代は知識さえ豊富なら、あとは「いかに症状を消すか(見えなくするか)」「いかに壊れている部分を修理するか(あるいは切り取るか)」にたけ ていればよいとされる時代で、ましてや医師の感情面での成熟度や精神性などは問われません。ホリスティック医学の論客たちにより繰り返し指摘されてきたよ うに、人間を機械と見なし、それをいかに修理するかに医療という専門領域の焦点を絞った結果です。そうしてそこから現代医療の様々な弊害が発生しているの も事実です。

 そのような場に、精神と肉体を統合する視点を持ち、またその視点から説得力のある治療を行うことのできるヒーラー が足を踏み入れることができれば、現代の医学界は大きく変わって行くでしょう。西洋医学を切り捨てるのではなく、そこに本来あるべき精神的な価値観を吹き 込むことで、あるべき姿を取り戻させるのです。しかしながら、これができるためには当然のことながら、ヒーラー自身がその価値観を体現していなければなり ません。そうして治療成績を上げることができるだけの技術レベルと、自己の仕事について説明できるだけの生体エネルギー/チャクラシステムとその機能につ いての理解と理論的背景も持っていなければなりません。

 古代ギリシャでは「ヒポクラテスの誓い」にも見られたように、医師の仕 事が神聖な務めとして受けとめられ、東洋にも「医は仁術」と心得られた時代がありました。もちろん現代でも、無医村に志願して出かけていく医者や、フラン スの「国境のない医師団」のように世界各地の紛争地域や難民キャンプで活動する人たちもいますが、アメリカ医学界の大勢は「ビジネス」としての「医療」に 傾き、日本でも治療が機械的、物質的なものに偏っているのも事実です。

 ニューエイジ界はニューエイジ界で、先に挙げたようにお 手軽ビジネスとしてヒーリングの類似品を普及することで、「精神性の皮をかぶった物質主義」とでも呼びたい風潮の普及に手を貸している面もあります。しか しこのような立場からは、現代医学を批判することはできません。「愛さえあればすべてはうまくいく」というのはニューエイジャーの好む信条でもあります が、「愛がある」ことは智恵を磨かないことの言い訳にはなりません。

 私にとってのヒーラーの道のりの核心は「慈悲」の心である ことを以前にも述べましたが、愛(あわ)れみ慈(いつく)しむ思いがあるからこそ、他の生命を生かすための知恵を身につけようと望み、またその智恵を実行 に移すための意志を磨くのです。智恵のない愛は盲目であり、意志のない愛は車輪のない車のようなもので、愛/感情、智恵/理性、そして意志、このいずれが 欠けても人間の活動はバランスのとれたものとはならないのです。

 再び定義に戻れば、ヒーリングとは、生命が「完全な、完成され た、全体的な状態」になるのを助けることです。ハンズオンヒーリングとは、そのために、遺伝、生育環境や教育、社会状況、トラウマを含むさまざまな条件に よって固定されたエネルギーのパターン(ブロック)が成長の過程を阻害している場合に、そこに介入し、滞っている生命の流れを再度目覚めさせ、それによっ て生命が再度、完成された状態を目指して成長し続けるのを可能にするための「方法」です。

 この視点からはヒーラーは、「生命は 自己回復能力を持ち、自己成長の可能性を秘めていること、限りなく成長を続け、より大きく完成された自己を体現することが生の目的であること」を認め、そ れを真理として自分自身、生きることをしなければなりません。それによってはじめて、個々の生命を全体的な視野から見、効率的な形で介入し、本来のあるべ き形を思い出させ、また新しく健全なエネルギーのパターンを導入する手助けができるのです。

(ウェブサイト掲載の日誌より抜粋)(2001年)

2000年11月某日

 カナダから帰ってきて、いまだやや気分高揚状態である。こんなに楽しく充実した時間を過ごしたことは(ワークショップを教えている間を別にして)近年あまりない。

  何をしに暖かなフロリダを出て北風の吹くカナダ(緯度だけ見れば北海道よりさらに北)まで出かけてきたかというと、ロザリン・ブリエール(以下RB)の率 いるヒーラーのグループに加わり、社会奉仕プログラムの一環として、ネイティヴの人たちを対象にヒーリングを行いにいっていた。私がBBSHを去った後に RBのところに出入りしてきたのは、年に1度のこのプログラムに参加し、奉仕活動としてのヒーリングに携わり、同時にこのようなプログラムを日本あるいは アジアで運営するためのノウハウを身につけたかったのが何より大きな理由だった。

 毎日朝の9時半に集合、その日のブリーフィン グや先日からの注意事項などの伝達を受け、10時を過ぎた頃から仕事が始まり、遅い日は夜11時頃まで、食事時間を除いて休みなしでヒーリングを行う。そ の場に訪れてきた人はネイティヴ(日本ではまだ「インディアン」とも呼ばれているが、もっとも正しい呼称は「ファーストネイション」)の人々でありさえす れば、誰でも無料でヒーリングが受けられる。患者が1人でも残っている限り真夜中になっても仕事を続ける、というのがコミットメントだったが、さすがにそ んなに遅くまで待つ人はいなかった。重症過ぎて会場にこられない人や入院中の人のためには2組のチームが往診治療に派遣された。

  選抜されて参加したヒーラーは5人1組でチームを組み、5日間で治療した患者のべ800人以上。肩こり、古傷、喘息などから糖尿病や胆石、白内障、ガンの 療養中、麻薬やアルコール中毒から回復中の人、生後数ヶ月の赤ちゃんからお年寄り、地元のギャングにいたるまで、ありとあらゆる年代層と病気が出そろう。

  ヒーラーはヒーラーで、各自のスタイルや方法論の違い(そしてエゴやプライド)を手放し、チームとして一体となり、一人の患者のために自分の持ち場を守っ て最善を尽くすことを学ぶ。一定水準のヒーラーがなにしろ5人がかりで治療に当たるのだから、効果はパワフルだ。患者一人につき40分以内がターゲット セッション時間、そして多くの場合、即座に目に見えて症状が軽減していく。

 とくに私にとって貴重だったのは、訪れる人々のほと んどが「(アメリカではやっているらしい)エネルギーヒーリング」などというものについて何も知らず、ただ口伝えで「病気が治るらしい」とだけ聞いてやっ てきたということだ。ヒーリングについて前もっての知識は何もなく、ただ「病気が治るかもしれない」というシンプルな期待だけを抱いてテーブルに横たわる 人々。そして現にそのような人たちの症状を軽減させあるいは治療に導けるという、ある意味では純粋な形で病気治療に携わる喜びである。

 そしてもちろん、アメリカでもカナダでも200年以上の迫害の歴史をくぐり抜け、今も社会的に苦闘するファーストネイションの人々、さらにその子供たちやお年寄りという、もっとも切実に必要とされるところに癒しのエネルギーを届けることができるという喜びもある。

  会場となったのはスクワミッシュ・ネイションのリザヴェーション(ネイティヴの人たちのテリトリー)内にある体育館。急ごしらえに並べられたテーブルやイ スの回りを、順番待ちに退屈した子供たちが叫びながら走り回るわ、セッション中のヒーラーたちの後ろに立って作業をじっと観察する人はいるわ(ハンズオン ヒーリングというのはネイティヴの人たちにとってもかなり怪しいものなのである)、その中をライムグリーンの運動靴を履いたRBが元気に走り回り、テーブ ルごとに注意や指示を与えて回る。

 そう、私が本当にいたかったのは、会場からイスの並び方一つに到るまで完璧に設定されて美し い音楽のかかる中、みんなでトランスに入って「すばらしい精神的経験」をする場ではなく、この体育館のような雑多な環境の中で、朝から晩まで立ちっぱなし で病気の人々と接し、その痛みをやわらげ、より大きな癒しのサイクルの一部となれる、そういう場だったのだと改めて思った。

 そしてこういう形、こんなレベルで仕事のできるヒーラーを10人でも20人でも日本に育てることができれば、幸せだと思った。

(アッシジの聖フランシスコの祈り)

主よ、我を汝の平和の使いとなしたまえ
憎しみのあるところに愛を
苦痛のあるところに許しを
不和のあるところに調和を
疑いのあるところに信頼を
誤りのあるところに真実を
絶望のあるところに希望を
悲しみあるところに喜びを
暗闇のあるところに光を
もたらさんがために

慰められることよりも慰めることを
理解されることよりも理解することを
愛されることよりも愛することを
我に求めせしめたまえ

与えることにより 人は受けとり
許すことにより 人は許され
死ぬことを通してこそ
人は永遠の生に生まれ変わらんがためなり。

(英語テキストからの翻訳/王由衣)

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ヒーリングの本質

 外では風が窓を揺すぶり、ほの暗い空の下で海がわきたっています。私は風が好きです。2年ほど前 にこの海沿いの小さな町に落ち着いたのも、四季を通じて風が吹きやまないのが気に入ったからでした。真夏でも海の香りの強い風が吹いて、エネルギーがよど むことが一時も許されない、そんな環境なのです。

 雨の気配を運ぶ風、澄んだ夜空を吹く風、雪交じりの風、柔らかな草の匂いの 風... 風は私にとって絶えることない変化の象徴であり、いわば生の過程の象徴でもあります。何かにとらわれて視点や感情が硬くなっている時、生命エネ ルギーと自己のエッセンスが自由に自分の内外を流れていない時には、風の中に踏み出すことで、自分自身に帰ることができる、自己の本質(エッセンス)に 戻ってくることができるのです。

 秋のはじめにこれまで勤めていたヒーリングスクールを退職して、長い間一つの枠組みの中で公私 ともに生きることで、自分の中のどこが硬直し始めていたか、また自己の可能性を十分に追い求めないできたかといったことを振り返って時間を過ごしました。 そんな中、ふとスクールで4年の時に書いた卒論について思い出しました。

 「人間には二つのリファレンス・ポイントが必要だ。そ の一つは外部、つまり自然にあり、もう一つは内部、つまり自己の内にある。自然はもっとも明晰な曇りない鏡として人間の魂を映し返すことで、人間に自己の 本質について思い出させる。そして憧憬は、より高い存在へ進化し続けたいという絶えざる衝動を通して、内面から人を導く。」この思いは、今の私にとっても まったく薄れることない事実です。

 最近話題にのぼっているアニマル・セラピーなどに関連して「動物はどうやって人を癒すのですか?」と訊かれることがあります。答えは、ヒーラーがどうやってヒーリングに取り組むのかというのと同じです。

 よくヒーラーの所へ行けば「治してもらえる」と考える人がいます。抱えている病気や問題などを、外的な力で取り去ってもらえると期待してくるのです。けれども、真の癒しの過程は内発的な形でしか起こりません。

  すべての癒しとは、実際には、自己の内に内在している生命力にアクセスし、それが再び自由に流れ出ることを可能にする過程なのです。ただ、悩みや病気が長 期にわたったり複雑化している時には、本人にはそれが思い出せず、またどういう道筋を通って自己の本質に帰るかがわからなくなっている。自分の内に普遍的 な生命が宿っていると思い出せない人さえいます。

 そんな時、ヒーラーは、その人の内にある健全な生命の本質とその人自身の本質 を見、それを映し返してあげることで助けるのです。もちろん、その過程で歪んだ生命エネルギーのパターンを修正したり、チャクラを再形成したり、さまざま なヒーリングテクニックを使うこともあります。けれど、テクニックはヒーリングの本質ではないのです。癒しが起こるためには、ヒーラーがまず自分自身の本 質と生命の本質にアクセスでき、それを創造的過程を通して自由に流れさせることができなければなりません。

 その上で、他の人がそれを行うための「空間」ないし「場」を創ってあげられることが必要なのです。この場の広さ、強さ、安定性はそのヒーラー自身の人間存在および生命としての器の広さ、強さ、安定性に比例します。

  動物たちが人間の癒しを手伝う仕組みも、基本的にこれと同じなのです。動物はみな、自然な形で自己の内に内在する生命の力につながっており、それを比較的 自由に流すことができます。人間ほど個人化していないため、かわりに、より自然に近く普遍的な形で生命の本質を体現しています。そして自己の内の生命の本 質にアクセスできるものは、つねに他者の中にもそれを感じ、見ることができます。人間が動物から受け取るのは、まさにこれなのです。

  動物の瞳の中に、曇りのない命の在り方を、そしてそれにより映し返される自分自身の生命としての本質を体験的に思い出すのです。そこから自然にほほ笑みが こぼれ、また愛や優しさの感情が流れ出します。イルカなどのように超音波で脳を刺激するといった「ヒーリングテクニック」を併用できる動物もいますが、そ れがアニマル・ヒーリングの本質ではありません。

 かつてシュヴァイツァー博士は「生命の共感」ということを言われました。命あ るものどうしがお互いを命あるものと認め合う感覚です。小さな子供でも、それが「生きもの」なのか「物」なのかを知っています。「だって生きてるもの」と いう言い方でしか表現できないような、明らかでありながら、なお言葉では説明できない純粋な感覚。そしてこの感覚を健全に維持している人であれば、どんな に小さく単純な生命であっても、命が絶たれるのを見た時には、痛み、悲しみを感じます。

 この生命の共感と、そこから生まれる他者の苦しみを自己の内にも痛みとして感じる繊細な能力が、慈悲の根源なのです。これは私が幼い頃から動物たちと暮らす中で学んだ、とても大切なことです。

  人間は誰しもこの慈悲の萌芽を持って生まれてきます。けれども成長の過程で傷つけられたり、心理的外傷(トラウマ)を経験することで、自他の痛みに対する 繊細さを鈍らせていきます。そしていつか鈍い状態の方が「普通」だと思い始める...かつて自分がどれだけ感じやすく柔らかな存在であったかを忘れてしま うのです。

 訓練されたヒーラーとは、もう一度自分本来の鋭敏で繊細な状態に帰ることを、努力や自己の癒し、自己成長を通して 行った人です。そして本来の敏感な状態が肉体、感情やエネルギーレベルで取り戻されるにつれ、いわゆる超感覚と言われるものも自然に開いていくのです。こ れに対し、動物たちは、そもそも鋭敏な生の状態から切り離されたことがありません。人間からは「超感覚的」と見なされるような、「目に見えない」エネル ギーを感知する能力も生まれた時から開いていて、成長過程で失われることもないのです。

ヒーリングのオーヴァーライティングデーヴァ

  「ここに表現されたヒーリングの本質についての見方は、基本的に正確だ。考えてもみたまえ。もし動物と人間との間に共有されるものがなければ、どうやって 両者の間にヒーリングが起こるだろう? 共有されるもの? それは生命の土台であり、その中を流れまたそれを支える宇宙の普遍的法則だ。

  人よ、動物たちを助けたいと望むか? 自らと他生命との関係を、また母なる地球との関係を癒したいと? ならばまず自らを癒せ。他者を癒すのは行為を通し て行なわれるものではない。行為はしばしば必要だがそれだけでは十分ではない。癒す力の本質にあるのは、存在の状態そのものだ。自らの存り方を通し、生命 レベルの共鳴現象を通して、相手の中にある生命の本質との間につながりを結び直すのだ。

 人間という種の特質について考えてみる がいい。人間とは自由意志を持ち理性を通して自然法則から乖離し得る能力を持つ生命形態のこと。そして乖離能力があるのには理由がある。つまり、いったん 「離れる」ことを通してのみ「帰る」ことを学ぶことが可能になり、そして初めて意識的な一体化が可能となる。法則から離れたことがなければ帰るということ もわからないし、意識的な形で存在することもできない。そして人間が他の生命に与えることのできる最大の贈り物は、法則への意識的な帰順を通して形作られ る。鍵は「意識的」ということだ。

 そしてそのための最高の道具を人間は備えている。すなわち、あらゆるエネルギーと存在のレベ ルにアクセスする能力だ。能力の土台はすでにそこにある。必要なのは意識的な形でそれを3次元の地球レベルの自我に統合することだけだ。これがアセンショ ンということの本質なのだよ。

 このような形で人間がフルに自己を開くこと。これが人類がこの時代、この惑星において義務と責任 を果たすための鍵であり条件だ。これがなされた時には、現時点では限られた人間との間にしか意識的に開かれていない、人間とエネルギー世界とのコミュニ ケーションが、大多数の人に開かれることになる。遠い先のことだと思うか? だが、これがなされることが必要なのだ。仲介なしに、望むすべての人間が情報 の源にアクセスし、またデーヴァの世界との共同作業に参加することが、水瓶座時代が顕現するために必要だ。」

種の進化を統括するデーヴァ

  「... 基本のルールは宇宙自然の法則自体によって与えられた。それが個々の種の個性によって彩られ、特定の要素が強調されあるいは薄められて、独自の本能あるい は内的因果律となる。DNAを媒介として伝えられる、生命の土台レベルでの智恵と言ってもよい。その網目を通して種の成員の生命経験が濾され、集積され、 共有されてゆく。新たに共有される、より高い知恵を通して、次なる生命経験がまた篩われ、統合されてゆく。

 この細胞に内蔵される智恵ないし因果律に沿って、生命の形態自体もまた変化し、より豊かで複雑なものへと変容してゆく。これが進化の過程なのだ。

  人間という種自体、まだその進化の過程を完成していない。今もまだ種としての成熟の途中にあるのだ。この新しい成熟の可能性を具体的な形で体現し始めてい る個体が、この惑星上にも現れ出している。その第一段階の変化は、脳と中枢神経を含めた全身の神経系統の再整合、再統合という形で現れ始める。もちろん、 エネルギーのテンプレート(青写真)レベルからこの変化は降りてきて、それがDNAレベルの変容や細胞器官の二次的発達、神経系統の再整合などを通して、 肉体レベルで体現されていくのだが。

 ちなみに今この時期に同じような進化の段階を経ているのは、人間という種に限定されない。

 .... これはそれほどおかしなことではない。今この段階において人間が次段階の進化のステップを踏むためには、物質とエネルギーのレベルでこれまで身に付けてき たすべての要素を一つに融合させ、そこから新たな存在形態が形をとることを許さなくてはならないのだ。いもむしが蝶になる前のさなぎの段階で、いったん肉 体の構成要素がすべて液状に溶けさる状態に例えてもいい。この融合過程に含まれるのは、種としての肉体レベルの構成要素から、個人および集団としての感 情・精神構造までが含まれる。そして融合の溶鉱炉の役割を果たすのは、過去から受け継いできたすべての夾雑物を捨て、自己の肉体と魂が完全に統合された状 態に戻る能力だ。これは同時に個体として今この瞬間に完全に生きる能力とも共通する。この過程を、水瓶座時代の魂のアルケミー(錬金術)と呼んでもいいだ ろう。

 永遠というものが、一瞬一瞬の現在の無限の集積からなっているということを考えてみるとよい。時の本質は、人間の直線的視点から見ればパラドクスに満ちたものだ。永遠に近づく最大の早道は、今この瞬間を通してであるということ。

 .... 同様に、進化の次ステップを踏み出す方法は、現在に至るまでに積み重ねてきた自己の存在の全要素を、現在という一点に集束させることだ。」

(1998)

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コミュニティの器

<チャネリング・メッセージ>

 成長のプロセス、ということについて少しお話しましょう。

  子どもがまだ幼く、十分な判断力をもたない時、それを導き、しつけ、社会の中で、また人間の共同体の中でよりよく生きていくためにはどうしたらよいかを教 えるのは大人の責任です。かつては自分自身子どもであり、経験を通し、時には失敗を通り抜け、得てきた知恵と視点の高さ、それをもって、後進である子ども たちを導くのです。

 これと同じことが、大人の教育にも当てはまります。経験を通して学び、知恵を蓄えてきたものが、後から続く ものを指導し、ともに道を歩むことを可能にするのです。同時に後から続くものの視点の新鮮さは先にゆく者にとっても新たな学びの源となり、また初心の心構 えを呼び起こさせるものともなります。

 他方で、子どもたちがある程度育ち、一定レベルの判断力を備え始めた時、それまでと同じ 形で彼らを導こうとするのは適切ではありません。芽生え、育ちつつある判断力、それは知恵の萌芽ですが、それを伸ばすように、指導の形を改めなければなら ないのです。この時点においては、ほとんどすべての外的な枠組みを教師の側に依存する子ども時代初期の教育形態から、次第に枠組みをゆるめ、学び手の内面 に知恵の器を築き始めるよう、指導を切り替えなければなりません。もちろん、器の当初の形は、外的な枠組みの内在化から始まります。

  この意味で、外的な枠組みないし器の重要性は軽視されてはなりません。けれども、それがいつまでも外的な枠組みに頼るような形に閉じこめられてしまっても ならないのです。ある時点で枠組みはゆるめられなければならず、そしてそれはこれまで枠組みに保護されてきた者にとっては不安をかき立てる経験であり、時 に内面の危機として経験されるのですが、しかし指導する側は、それによって、内的な器が形をとり始めるよう促さなければならないのです。

  この過程は、子どもが育ち、母親から自立していく過程と似ています。そうして、各自の生育過程において適切に通過されなかった、つまり両親との関係におい て成長が阻害されたままの要素が各自のパーソナリティ(感情を含む「人格」)ないし自我の内に「ブロック」として残っている場合、それと同様の阻害パター ン(すなわちブロック)が、学びの中の自立過程においても形をとります。

 すなわち、母親から完全に自立することを経験しなかっ た学び手は、精神的道程を歩む際にいたっても、教師の当初の比較的しっかりとした枠組みの中から育ち出ることを望まず、その中にとどまることを無意識のう ちに好みます。また母親からの独立の際に葛藤を経験した者は、その葛藤を、とりわけ教師が枠組みを切り替えようとする際において、投影し、経験します。こ れはある程度器の形成が進み自己を客観的に見る能力の育っている人のうちにあっては内的な葛藤として認識され、まだ幼い部分の多く残っている個人、器の形 成が不安定な個人においては外部に投影されて「外的な」出来事、他者の行為として経験されます。

 これらは心理学や心理療法を学 んでいる人によってはよく理解される仕組みですが、それが自らの大人としての教育や精神的な学びの道程においても形をとっていることを理解し、あるいは気 づいている人は、あまり多くないのです。そうして、それであるがゆえに、このことを、改めて気づき、認識し、あるいはそのような知識のなかった人は、自ら の知識に加え、理解していただきたいと思います。

 あなたがたが、一つのコミュニティとして形をとるものの内に足を踏み入れる 時、家族との関係において未解決である問題や葛藤は、必ずそのコミュニティそのもの、ないしその成員に対して、投影され、経験されます。これはそれが会社 組織のようなものであれ、精神的な道程を歩もうと望む人々のコミュニティであれ、変わりはないのです。あなたが両親の一方または両方に対して抱いている未 解決の葛藤は、同様にコミュニティの指導役や、道の教師に対して投影され、経験されるのです。兄弟姉妹との未解決の競争心、優越心などはそのまま、コミュ ニティの成員に対して投影されるでしょう。

 そうして自己を癒し、成長したいと真摯に望む人々の集まる場においては、これらは自 己のまだ癒されぬ部分を見つけ、光を当て、癒していくための最良の手がかりと知ってください。否定的な感情は、それが自己によって認識され、知恵をもって 処理されるならば、成長のための手がかりとなるのです。

 あなたは自らがいただく精神的教師をどのような目で見つめますか。ある いは精神的教師でなくとも、一般の場で指導者、教師、上司、その他なんらかの権威としての役目を持つ人に、どのように接しますか。「どのように接したい か」ではなく、現に接してしまいますか。そこに鍵があるのです。

 理解していながらその理解に行動が一致せぬ時、そこには感情の 滞り(いわゆる「ブロック」)があると知りなさい。あるいはまた、教師を全面的な全能者と見、自らを劣った者と見なす傾向、あるいはそのように振る舞う傾 向は、自らの内面にある亀裂の表現と知りなさい。あるいは権威を権威として受け入れることのできない傾向性もまた、自らの内なる権威、すなわち、いと高き 内面の神聖さを受け入れることへの抵抗の反映であると知りなさい。

 このようにして、絶え間ない内省と自己分析を通して自己を知 り、そして手放すべきものを手放すための手がかりとして用いる時、感情転移の仕組みはその正しい役割を果たし、精神的教師、そうしてまた精神的道程を歩む 人々のコミュニティは、各自の成長のための鏡としての本来の役割を果たすことができるのです。

(ケレウス、2001)

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変容の道程、影との取り組み

<チャネリング・メッセージ>

 有事、すなわち戦争や自然災害、またテロリズムなどによって、多数の人命が突然失われる事態は、人の心を揺さぶります。それは突然、思いもかけぬ 形で襲いきて、人々の魂と地上の両方に深々と爪痕を残していきます。近年においてはことに大規模で破壊的な形で、物質的にも精神的にも大きな動揺を与える 出来事が増えています。これには理由があります。

 人の心、とりわけ自我に支配された「(表層)意識」が、自らの生き方に慣れ、特定の固定された視点からしか世界を経験することができなくなった時、そしてその表層意識の視点が限られ、偏ったものである場合、「影」が人の人生に忍び寄ります。

  この影とは、ユング派の精神療法によってよく理解される、アーキタイプとしての「影」、本人の魂の中の生きられていない影の領域の部分です。そして視点が 限られたものであり、偏りの強いものであるほど、そしてその固定化が頑強なものであるほど、影は乱暴に、突然に、姿を現すのです。自らを現実から切り離そ うとする表層意識/自我につかみかかるのです。そうして本人がより大きな現実に目を開き、生き方を変え、自己の定義をより大きく広げることを余儀なく迫る のです。

 影を変容することが可能となるためには、影を認め、受け入れ、自らの魂の器の中で熱さなければなりません。

  影を影としてあくまで突き放そうとする時、あるいはそれに目を向けることさえ拒む時、影は最大の力を発揮します。そうして時には人生全体を乗っ取るので す。自殺、重い病気、事故などの形で、むりやり影と影でない部分の統合を測ろうとすることさえあります。その統合の形とは「死」です。

  もちろん、影に乗っ取られてそれと一つになることは、魂の成長のステップとしては「停滞」とも言えるものなのであって、このような形で私たちのもとに返っ てきた魂は、再度、そのレッスンを学ぶために人生の道程をたどり直さねばなりません。(もちろんこれはすべての病気や事故がそうであると言っているのでは ありません。魂の意識的な選択、成長のための通り道としての病気や事故もあるのです。)

 このような個人の魂レベルの仕組みは、 そのまま集団の魂、意識にも当てはまります。すなわち、同じような成長と統合の過程が、国レベル、民族レベル、地球レベルでも起きているのです。そこで学 ばれねばならないレッスンは、つねに、いかに自己の定義をより大きな包括的なものに広げていくか、ということにあります。

 人類 はその過去を通して、とりわけ過去数百年の間、すなわち近代的な国家という概念が生まれた時点より、より明らかな形で国と民族のレベルでこのレッスンと向 き合ってきました。そしてそこに組織化された宗教というきわめて排他的な枠組みの存在もあって、その学びの過程は、決して容易いものではありませんでし た。そうしてさらに大きな地球という規模の存在単位に向けて、意識的な統合を進めていかねばならないこの時期にあって、人類の内なる葛藤はさらに激しく、 大規模なものとなっています。

 その理由はひとえに、人が自らの内面の影を切り離し、自己のものとして認めず、それを他者に投影 し、すべての問題を他者に転嫁していることにあります。自分と異なるもの、自分の限られた視点から理解し得ないものは、自らの影となっている要素の投影の 対象となるということは、過去にも指摘してきました。異民族、異宗教などがしばしば排斥と迫害の対象となってきたのも、このことによります。それがもっと も克明な形で表現されたのがナチスによるユダヤ人の迫害であり、また近年においてはアフリカにおける部族同士の抗争、また前ユーゴスラビア諸国における民 族・宗教戦争です。

 このようなあからさまな形で表現された時、それは目に入りやすい。けれども同時に、当事者以外の人間はしば しばそれを自分とは関係のないことと見なし、「どこか遠い国の不幸な出来事」くらいに感じて通り過ぎる傾向があります。けれども、現在、地球上において人 間同士がこのように迫害し合い、時に殺害し合う現実が存在する時、それは同じように自分と異なる相手、理解できないものを仮想の敵と見なし、自分と自分の 利益を守るためには「敵」を容赦無く迫害、攻撃しようとする要素が、意識の深いところですべての人間によって共有されていることに他ならないのです。仮に あなたの普段の生活においてその表現がより微妙なものであったとしても、根は同じです。

 忘れてはいけません。人の魂は浮島では なく、仮に孤島のように見えてもその深いところではより大きな集団の魂と切り離しがたくつながっているのです。ちょうど島が海の底で大地とつながり、地球 の地殻の一部を形成するように。もしもこのつながりがなかったとすれば、そもそも人は自らを人類の一部として認識することもできないのです。ですから、 今、地球上のどこかで人間の手によって行われている行為は、あなた自身の内にも、魂としての存在にも切り離しがたく結びついているのです。これは単なる比 喩ではありません。

 どれほど遠い国のことであれ、勇敢な行為を目にした時に感動を覚え、残酷な行為には悲しみや憤りを覚える。 これはあなたが他者の行為と切り離しがたく結びついている何よりの証拠です。同じ人である、この地上にともに生きている、生命を共有している、ただそのこ とによってすでに、互いに結びつけられているのです。

 今、不幸にも地球上で繰り広げられつつある新しい戦争があります。「どう したらいいでしょうか」「何ができますか」そのように問う人々にお教えしましょう。内と外の両方において、行動をとりなさい。外面の行動はわかりやすいで しょう。寄付でもよい、ヴォランティアでもよい、小さなことでよいから、この戦争によって苦しめられている民のために、あなた自身のもてるものの一部を分 け与えなさい。

 内面の行動とはこういうことです。地上に存在する人の心の暗闇は自らの魂の内にも存在するものであることを認 め、自己の内にある不寛容、恐れ、憎しみ、残酷さ、冷酷さ、排他主義、そのような要素をたじろがずに見つめ、それを変容させる努力をなさい。「自分の中に はそのような要素などない」と言う人があれば、それこそ、影に力を貸していることなのです。

 人間として生まれてきた者はすべ て、人類の抱える意識の暗闇、痛み、苦しみ、その他さまざまな影の要素の一部を自らの魂の内に受け取って生まれ出ることに同意してきたのです。それを自己 の人生を通して変容させ、光に変えて、そうして人類全体の意識の中に再度解き放つことができるためです。これが霊と肉の二重性の世界に選んで生まれてくる ことの意味であり、一人一人のこのような行為によってのみ、人類の意識全体を変えていくことができるのです。それ以外に道はありません。

  「光の中で光を掲げることは容易い。けれど暗闇の中へ降りていって、そこで光を掲げることのできる者こそが、真の光の運び手である」以前、そのように申し ました。そのように、恐れずに進みなさい。ひとたび形をとった影はむしろ見定めやすい。混乱する世界情勢を自らの魂の鏡として、また混乱の中で揺れ動く自 らの感情を鏡として、自分自身を見つめなさい。自己の内にある暗闇に光を当てなさい。

(ケレウス、1996)

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転生の意味

 「肉体の中に本当に生まれる(一つの生において完全に転生を遂げる)」とは、どういう意味でしょうか。「赤ん坊として生まれた時点で、人間は肉体 に生まれている」と考える人が多いと思いますが、それはちょっと違うのです。肉体への転生とは漸進的な過程であり、それは言ってみれば死ぬまで続くので す。

 その中でも「完全に肉体に生まれる」とは、肉体・知性・感情・精神性がバランスよく発達、成熟し、これらの全レベルにおい て自己が調和し統合され、100%人間として機能できるようになることを指します。この状態では、自己の肉体のあらゆる部分、それこそ細胞の一つ一つにま で、神聖な自己の本質(エセンティア=本質、内なる神性)がしっかりと顕現され、息づき、光を放っているのです。食べる、体を動かす、友人と語らう、恋人 と愛を交わす、その他人間としてのあらゆる日常の営みが、深い魂のよろこびをもたらしてくれるのです。

 この点から言えば、人類の大半は30%も肉体に転生し切っていないのです。

 訓練されたヒーラーによるヒーリングは肉体と魂、精神性の発達と統合を助けますが、本人の意識的・長期的な努力なしには、ヒーラーにできることには限界があります。ヒーラーはあくまで介助者であり、自己の癒しと成長は本人の手によってのみ成し遂げられるものだからです。

 バーバラ・ブレナンのヒューマンエネルギー分析システムを知った人の中で、「霊的なことに関与する5、6、7のレベルは、物質的なことに関係する1、2、3のレベルより偉い」と考えている人が時々いますが、これはまったくの見当違いです。

  人間としてフルに生きる(=物質世界に完全に転生し、それによって自己の神性/本質を物質世界に顕現できる)ために必要なのは、1〜7のレベルをすべてバ ランスよく発達させることなのです。第1レベルの肉体感覚と物質世界に生きる意志、第2レベルの自己感情と官能、創造力、第3レベルの知性と直感、第4レ ベルの対人感情と人間愛、第5レベルの高い意志と秩序、第6レベルの無条件の愛、知恵、洞察力、第7レベルの霊的理性と智恵、統合性、これらのすべてが等 しく大切なのです。

 極端に霊的、精神的世界に偏ったタイプの人が、1〜4のレベルを「低いもの」と見做したがるのは、実際には 自己の1〜4のレベルが弱いため、それを「重要でないもの」と考えたがるだけなのです。第1レベルが弱ければ肉体が脆弱で、物質的な営みすべてを厭わしく 感じます。第2レベルが弱ければ自分を愛することができず、性的にも未成熟です。免疫機能も弱いでしょう。第3レベルが弱ければ思考を整理して明確に表現 することができず、第4レベルが弱ければ人間関係が充実しておらず、ハートが閉じており、他の人間に対する愛を実感できません。こんな状態では、いくら 5〜7のレベルが発達していても、一緒にいて居心地のいい人とは言えません。このような人では、霊的経験はしばしば人生と現実からの逃避の場です。

 .... 第2レベルと第2チャクラに関して言えば、このレベルとチャクラは自己感情と同時に、官能と性的な感覚・意識に対応しています。つまり、自分の感情を感じ る能力と、性の発達は、不可分に結び付いているのです。官能の未発達な人は自己感情も弱く乏しく、またその逆も真です。別の言い方をすれば、性的な成熟 と、自己の性的な面との調和なしには、転生における人間としての経験は完全なものとはならないのです。ただしそれは、誰でも適当に相手を見つけて交渉を行 なえばいいということではありません。自分と相手のハートの間に深いつながりのないセックスは無意味です。

 特に女性について言 えば、楽しくもない(場合によっては苦痛でさえある)のに単に夫や恋人を喜ばせるために応じるセックスは、無意味であるだけでなく有害です。それは第2 チャクラを中心に腰のまわりにエネルギーの停滞や障壁を作り出し、そのパターンを長く続ければやがて婦人病や卵巣、子宮の病気を作り出します。エネルギー レベルから見れば、セックスは第2チャクラ、愛は第4チャクラに対応しますが、第2チャクラ(下腹部)と第4チャクラ(胸)が開き、その間に自然なエネル ギーの流れがなければ、「愛の通った」セックスは経験できません。

 セラフィエルの言う「最も暗い場所」とは、実際には、自己の 内にあって光の当てられていない(光を当てることを恐れている)部分を指します。この意味で、多くの人にとって第2レベルと第2チャクラ関連の問題は、お そらく最も光の当たっていない領域でしょう。この点に関して「自分は例外」と信じたがる人が時々自称「スピリチュアルな」人の中にいるようですが、実際に この問題を超越していると言えるのはごく一部の聖人ぐらいで、普通の人間に当てはまることではありません。ましてやフルに自己の人生を生きることを通し て、人々に人生の意味を示す役割を担うライトワーカーには当てはまりません。

 ヒーラーを志望する人にとっても同様です。ヒー ラーがヒーラーとして機能するには、自己の存在の全レベルとチャクラを、満ち足りた状態に維持することが必要です。肉体の手入れ、自分自身への愛、人間関 係、これらをすべてバランスされた形で自分に与えられることが必要なのです。いずれかが生活から欠けていれば、対応するレベルやチャクラのヒーリングを行 なうのは難しくなります。

 自分の体を大切にしないヒーラーは、患者に肉体の健康について教えることはできません。自分自身が愛 に満ちた人間関係を持たないなら、患者のハートを開くことはできません。自分自身を愛することが充分できず、官能面でも成熟していなければ、健全な形で自 己愛を学ぶことを必要とする患者を導くことはできないのです。自分自身が持っていない、あるいは自分に与えることができないものを、他人に与えることがで きると考えるのは、ケレウスの言葉を借りれば「幼い考え」、私に言わせれば「自己欺瞞」です。愛や慈悲は自分に強いて他に与えるものではなく、自分自身の 内面とハートが満たされている時に自然と溢れ出るものだからです。

 自己を犠牲にして他人に与える愛は、つねに代償を求めます ——たとえ表面上はどんなに本人がそれを否定しようと。むしろ本人がそれに気付かないでいるほど、その代償は歪んだ形で求められるものなのです。それに対 して自然に溢れ出る愛は、なんの代償も必要としません。というのはその源自体がすでに満ち足りているからです。

 自己の内面が満たされていないヒーラーは、無意識のうちに、患者との関係を通して自分の満たされない部分を埋めようとします。同じことはヒーラー以外のライトワーカーにも当てはまります。

  トランスフォーメイション(意識の昇華、変容、)とトランセンダンス(精神的超越)の両方を経ることなしには、アセンションに到ることはできない。そして 変容の道は影との取り組みを避けて通ることはできません。しかし精神世界系の多くの人が、トランスフォーメイションなしにトランセンダンスのみを通して、 あるいは自己の影から目をそらし、光のみを追い求めることでアセンションに到ろうとする過ちを犯しているということ。

 トランセ ンダンスのためのメディテーションやエネルギーワークとは、上位レベル(バーバラ・ブレナンの定義する第5、6、7レベル)のみに意識を集中するもので、 スピリチュアルなタイプの人にとっては、これはとても楽なのです。ただ自己を光で満たし陶酔感に浸り、あるいは人間のグルや「霊的存在」などから光とエネ ルギーを与えてもらえばいいのですから。

 しかし下位のレベルの問題を浄化をしないままに上位レベルにだけ集中している人は、前にも書いた通り、現実社会、物質世界、人間関係などにおいて満足に機能できておらず、かえってスピチュアルな経験、トランセンダンスの状態を、単なる逃避先としてしまっているのです。

  そして下位レベルの浄化、つまりトランスフォーメイションの土台になるのは、肉体、自己感情、知性、人間関係の浄化と充実です。毎日、自分の肉体と感情に 注意を払い、必要なものを与えるよう努めること。自分の感情について、妥協なく正直であること(ただしこれはあらゆる場合に自分の感情を人にぶつけるとい うのとは違います)。人間関係を含む外部の環境とは、最終的に自己の内面の反映であり鏡であると理解して、満たされない部分、スムーズでない部分について は、自分自身を見つめ直し、その原因を見つけて取り除いていくこと。こういった地道な努力を積み重ねていくことが、結局アセンションへの早道なのです。

  「アセンション」を加速する(すなわち個々の進化の次のステップに向けての癒しと自己成長を助ける)エネルギーレベルの調整は、ライトワーカーズのクラス 中に行われていますし、各自で実行できるエネルギーワークのテクニックも教えています(必ずしも「アセンション」というラベルをはっていませんが)。しか しこれらはあくまで一助であり、それを受け取り安定させるための許容能力は、受けとる本人の肉体とオーラの全レベルがどれだけ浄化され満たされているか、 つまり人間として健康で充実した人生を生きているかに比例するのです。

 「これさえ受ければ、あとは何もしなくとも」というよう なアチューンメントやエネルギー伝授、「イニシエーション」の類いは存在しません。そのようなことを主張して商売にする人があるとすれば、それは現代人の 精神の幼さに巣食うニューエイジビジネスの一環と呼ぶしかないでしょう。(1996)

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Eclecticな道程

 「エクレクティック」というのは英和辞典をひくと「折衷主義」というような訳語しかないようですが、実際に英語の会話などで使われる場合には次の ような意味です「(of people, methods, ideas, etc.) not following any one system or set of ideas, but using parts of many different ones」(Longman Dictionary of Contemporary English)(「特定の体系や考えに従わず、多くの異なる体系や考えの部分部分を組み合わせて使用する(人々、方法論、考え等)。」

  これは私のスピリチュアルな道程の基本的方法論と言ってもよいでしょう。つまり、「これさえやればすべての問題が解決でき、充実した人生が送れ、宇宙の心 理が体得でき、可能な限り高いレベルの霊性に達することができる」というような単独の体系、方法、技術のようなものは、この世には存在しないということで す。

 具体的に例を挙げましょう。人間は肉体、知性、感情、霊性の4つの存在レベルから構成される存在です。つまり肉体と魂の健 康を維持しフルに生きるためには、この4つを取り扱う方法がそれぞれ必要になります。これらレベルを均等に扱うことのできる単独のアプローチというのは、 はっきり言って現存しないのです。

 肉体の手入れについては、ヨガ、大極拳などからロルフィング、フェルデンクライスのようなさ まざまなボディワークがあります。そしてその中のあるものは感情レベルのリリース(ブロックの解放)効果もあり、あるいは霊性と肉体のつながりをスムーズ にする効果もあります。しかしボディワークだけでは、当然のことながら感情や霊性の問題をカバーすることは到底できません。つまり、例えばヨガや気功に何 十年かけて習熟したとしても、感情の成長状態は幼いままということもありえます。

 深いレベルで感情の問題を解決するには、どう しても長期間にわたる心理セラピーが必要です。しかし心理セラピーだけでは他方、霊性の表現や肉体の健康についてカバーできないのは言うまでもありませ ん。またフロイト派、ユング派、新ライヒ派など、種類の異なる心理セラピーごとに、扱える問題についても得意不得意もあるのです。バイオエナジェティック ス、コアエナジェティックスのような新ライヒ系療法は心身統合を目指すものであるため、セラピーとしては比較的幅は広いのですが、やはり単独でカバーでき る領域には限界があります。

 この点、5月のワークショップでも少し説明したパスワーク(Pathwork)のセッションおよび トレーニングは、人間の霊性を重視したスピリチュアルな教えを前提に、各種の心理セラピー形態や心身統合療法が組み合わされている点、パワフルなものであ ると言えます。ただしこのパスワークさえも、それ自体で完結するものではありません。

 他方、こういったエクレクティックなアプローチをとろうとする場合に陥りやすいワナは、「あれもこれも」と何でも少しづつかじって、結局深いレベルで自己の問題に取り組むのを避ける形になる場合です。これではもちろん何にもなりません。

  また心理療法はその構造からいって、本当に深いレベルでの効果を得るにはどうしても長期(最低4年〜5年)の定期的セッション(毎週ないし隔週)が必要で す。バーバラ・ブレナンのヒーリングスクールが4年、コアエナジェティックスのセラピストのトレーニングが4年、パスワークのトレーニングが5年等となっ ているのも、それが理由の一つです。

 自分のたどっている道、学んでいること、受けている療法が深いレベルで自己に影響を与えて いるか、必要な問題に自分が取り組んでいるかどうかを知る最も簡単な方法は、その結果を見ることです。つまりそのボディワーク、心理療法、ヒーリングなど を受けて、それによって自分自身あるいは自分の人生に変化が表れているかどうか。それが本当に自分がこの段階で必要としているものなら、短期的にはその変 化は微妙なものかも知れませんが、数か月、半年、あるいは1年たった後に振り返った場合には、健康、感情、霊性、あるいは行動面などにおいて、はっきりと した違いが表れているはずです。そしてその違いは恒久的なもの、つまりその療法やワーク、教えを離れた後も、自己の内に作りだされた変化は継続して残るも のでなければなりません。

 そのような変化が見られない場合には、自分のやっていることを検討し直してみることが必要でしょう。 その療法やワークが自分に合っているものかどうか、あるいは自分は必要なレベル、深さで、必要なだけのエネルギーを注いでそれに取り組んでいるかどうか。 あるいは何か他の種類あるいはレベルのワークを組み合わせる必要があるのではないか。

 私にとっては人生とはつねに、一つの体系 や方法論を学び終わると同時に(時にはそれを振り捨てて)次の段階に移行することを求められる、限りのないチャレンジの連続です。それなくしては可能な限 り高いレベルへの人格と魂の成長はありえないし、この世界に肉体をもって生まれてくる意味もないと思います。そしてこのチャレンジに最も適切に対応する方 法が、エクレクティックなアプローチだと思うのです。

 このアプローチにおける最も重要な点は、自分の道程を選びそのための地図 や道具を選ぶのは自分自身の責任であり、そして道程の途中でその地図や道具がこれから先では役に立たないものだと知った時には、ためらわずそれを捨てて新 しいものに取り替える勇気を持つということです。もしも使い慣れた地図や道具にこだわってそれを取り替えようとしなければ、一つの人生において人間に可能 な限りの高みにまでたどり着くことはおそらくできないか、あるいはずいぶんと苦労の多い、遠回りなものになるでしょう。(1996年)

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聖母の歌

<チャネリング・メッセージ>

Cantus Matris Divinae

聖母の歌

自らを道にしばりつけてはなりませぬ。なにびとかのすでに通った道に、また誰か他の者の道に、しばりつけるようなことはしてはなりませぬ。それが黄金の扉につづく茨(いばら)の道であれ、またその他のどのような道であれ。

自 らの道を歩まねばなりませぬ。それはまだ形ともなりえておらぬもの。ただ汝の通りし後にその道筋が顕れるのみ。そしてまた他の誰もその道を通ることはかな いませぬ。なぜならそれはただあなただけのもの、あなたの魂にいたるための道程であって、それがどのようにすばらしくかたどられた道であれ、他の者がそれ を通って自己に到ることはかなわぬからです。

ですから、他者の手を引こうとは思いなさるな。ただ自らの生を満ち足りた形で歩むことによりてのみ、それを他者への生きた範(のり)としてのみ、あなたの教えは成就されるのです。

な にも大きなことを成し遂げなくともよい。そのような荷を、特定の目標(かたち)を、重荷として背負う必要はないのです。ただ自らでありなさい。それを目に する者がわずかにてもあり、その人々がそれを自らの道を歩み開くための希望とするなら、それであなたの仕事は成就されたのです。

た だ自らの内にあるものに目を向けなさい。それを感じなさい。この茨に冠された薔薇の心臓(ハート)を両手(もろて)にて抱きなさい。それを感じなさい。そ こから流れる赤い滴を指で触れ、唇にもっていきなさい。それで十分なのです。感じるだけで、経験するだけで、あなたの意識を通して。それだけで浄化は行な われうる、変容は行なわれうるのです。ただそこにありてそれを感じたまえば。

自らの魂がまだ見ぬものへの不安によりて震える時には、母の歌に耳を傾けなさい。他にはなにもせず、心さかず、ただ聞くのです。魂の耳もて。それで十分なのです。母の歌は汝の魂をつつみ、揺り動かし、はるかなる深みへと導くでしょう。

感じなさい。聞きなさい。ただ在りなさい。それで十分なのです。幼子である汝を、ただ存在のありのままに愛するように、母なる宇宙(そら)は、地球(ち)は、汝を愛するのです。波のように汝の魂を、その絶えざる生と死の巡りとともに、その内にはらむのです。

聞きなさい、汝の胸の内に鳴る波の音を。そは母の聖なる歌声。魂よ目覚めよと語る母の声の調べ。目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ...

永遠(とは)に繰り返してはやまぬ、海の語り...

Tramite, Per Forem Pectoris

(The Divine Mother)

(1997年)

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光の運び手の道程(みちのり)

はじめに...「メタファー(比喩)」

 ここで霊の世界や人間の精神について語られることは、一つの「比喩」である。 バーバラ・ブレナンのガイドが「物質世界と霊の世界の区別は単なる比喩であり、ガイドとはより大きな自己の中の別の自分自身のメタファーである」というの と同じ意味で。それは、その比喩の中に生きている(あるいは生きることを選んだ)者にとっては、現実であり、現実としての力を持つ。

  私と同じような魂の傾向を持って、似たような道程をたどって来た人にとっては、この「比喩」はわかりやすいものであり、おそらく先へと道を進んでいくのに 役立つ道具となるだろう。他方、この「比喩」が自分にとっては異質であり、意味をなさないと感じる人もあるだろう。それはその人にとっての事実であって、 無理に自分のその中に押し込む必要はない。

 光を運ぶ者の道程は多様であり、運び手が1000人いれば、1000通りの道程があ り、1000通りの現実の比喩がありうる。探し続ければ、多少時間はかかっても、自分にぴったりの道と方法論は必ず見つかる。なにより、「自分の魂に本当 にぴったりの道を見つけるまでは探索を止めない」という在り方こそが、光を運ぶ者の証拠なのだから。(Yui Wang, 1995)


目覚めよ、ライトワーカーたち

 世界の夜明けはもうそこまで迫っています。暁の光がかすかに差し込み始めました。目覚めの時です、ライトワーカーたちよ。あなた方の活躍が必要とされる時が来ています。

 すでに目覚めつつある者も、またこれから目覚めるものも、あなたたちは光のある方向を知っています。それがライトワーカーの証拠なのです。光をもたらすもの。それがライトワーカーの仕事です。

  その仕事はただきれいなだけの仕事ではありません。光が最も必要とされるのは、暗い場所だからです。そのように、ライトワーカーは、人々の恐れる暗い場所 へも、光を運んで行かなければなりません。それは外の世界だけでなく、自己の内面をも意味します。いいえむしろ、自己の内奥にある暗い部分に光を当てるこ とができて初めて、あなた方は真に光をもたらす者と言え、他の人々にも光を与えることができるのです。ライトワーカーとしての責任と義務を持ち始めるので す。

 それはただ楽しいだけの仕事ではありません。自己の心に巣くう抵抗を乗り越えて、暗黒の領域も含めて自己のすべてに対面し、 光を当て、なおかつありのままの自己を受け入れ愛すること。それによってこそ初めて、あなた方は他の人々をありのままに受け入れることができ、彼らの心の 中に光をもたらすことができるからです。

 そのように、心してください。けれどもまた、忘れないでください。この過程を経て得られ る光は真実、決して損なわれることのない光であり、このようにして歩まれる旅路は決して後悔を生むことのない道程であることを。旅程の終りに、故郷の世界 に帰った時、自らの生を振り返って、あなたは自分が真にライトワーカーであったことを改めて感じることができるでしょう。

 光の中 にあって光を運ぶのは容易いことです。暗闇の中にあってなお光を運び続けるのは難しいことですが、それこそが必要とされているのであり、それこそがライト ワーカーの仕事です。今、この黎明の時に、立ち上がってください。そしてともに歩みましょう。光を運ぶものは他の光の運び手を認めます。あなたは一人では ありません。何千、何万という仲間がもう地球上に生まれているのです。土台は築かれています。ネットワークの配線は敷かれています。必要なのはそこに自ら をつないで、必要な情報を得、同時にそれを分かち合うことです。

 必要なツールはすべて揃っています。必要なのはただ、あなたが自らを認識し、自らの自由意思で立ち上がることだけなのです。

— The Keepers of the Light


グラウンディングについて — 大地に足をつけること

  ライトワーカーにとって、なにより大切なのは、自分が「天と地の掛け橋」であるという認識です。これは「天」、つまり霊的な世界と強いつながりを持つだけ でなく、同時に物質世界にしっかりと自己を確立し、文字通り「地に足のついた」形で人間としても、社会人としても生きられることを意味します。地に足を付 けることを、「grounding(グラウンディング)」と言います。

 大半のライトワーカーおよびライトワーカー志望者は、スピ リチュアルなことに幼いころから興味があり、意識するとせずとを問わず、霊の世界に強いつながりを持っています。人生の初期から霊的・精神的な価値こそが 最高のものと考えて疑いを持ちません。自己の人生には目的があるはずだと確信を持っており、それをスピリチュアルな世界に探し求めます。

  しかしこのようなタイプはしばしば、特別な訓練や教育なしには、グラウンディング、大地へのつながりが弱いのです。物質世界での人間関係や社会生活が苦手 で、内向的、人見知りだったり、時には対人恐怖症に悩む人もいます。しばしばこの世界に対し不安を感じ、肉体の中に生きることが安全でないと感じたり、牢 屋の中にとじ込められているような感じを覚えます。このためにますます霊の世界とのつながりを強め、早く物質世界の制約から自由になりたいと望むのです。

  この傾向が強くなりすぎると、物質世界や社会を軽蔑し、自己の内に閉じこもり、霊能力の開発や過去生の記憶の取り戻しといったことだけに凝るようになりま す。このような状態では、大地から切り離されており、本人は好きなことだけをやって楽しんでいるつもりでいますが、心の底では、つねにそこはかとない不安 感につきまとわれているのです。「自分はこの世に生きる意味があるのだろうか」「この世に存在する権利を自分は持っているのか」といった疑問に悩まされて います。本当は親しい友人も欲しいし、人生をあらゆる面でフルに楽しみたいのですが、自分にはそれが可能だと信じていないために、精神的な世界だけを自分 の住みかにして、自分の価値観を理解しない人を「軽蔑」する態度を装うのです。

 しかしこのような在り方では、ライトワーカーが本 来生まれてきた理由を達することができないのは言うまでもありません。簡単に言えば、ライトワーカーの仕事とは、霊の世界と物質世界の間につながりを築く ことです。ライトワーカーは、霊の世界のすばらしい記憶を心のどこかにしっかりと保っており、そのためにスピリチュアルな価値観こそが大切なものだと信じ ることができる、というより「知っている」のです。その美しい記憶を意識の中にしっかりと呼び戻し、他の人々と分かち合うこと。そのような記憶をすっかり 忘れてしまい、人生の目的とは何かを思いだせないでいる人達に、そのことを思いださせること、それが第一の仕事なのです。

 そして このためには、しっかりと自己の人間性を理解し、肉体としての自己の存在を受け入れ、物質世界と大地にグラウンディングを行なうことが大切なのです。物質 的存在としての自己を包容できない人が霊の世界について語っても、それは単なる夢物語としてしか聞こえません。事実、このような人では、霊の世界の理解自 体が歪んでいるのです。これは自己の満たされない感情や欲求を、自己の霊的経験に投影するためです。

 またエネルギーレベルでは、 ライトワーカーは実際に天と地の掛け橋となります。高い霊的エネルギーを自己のエネルギーシステムに取り入れ、変容させ、物質レベルに流すのです。このた めには、グラウンディングが強ければ強いほど、大量の、より高いレベルのエネルギーを流すことができます。肉体としての自己をしっかりと確立していない人 は、エネルギーを物質レベルに持ち込むことさえできません。

 これらはグラウンディングの大切さについての、基本的な点です。

— ケレウス


ライトワーカーの道程

 私が今、これを読んでいる人達に伝えたいことはこういうことです。

 あなたは今、充実した人生を送っていますか。生きることが楽しいですか。今自分の目の前にある一瞬一瞬に、何のためらいもなく、憂いもなく、自己をうち込むことができますか。

 未来のことを考えて今をおろそかにしていませんか。先のことに気を取られて、今目の前にある生きることのよろこび、意味を、見つめ、受け取るのを、ごまかしてはいませんか。

 今この瞬間に生きる。それは簡単なように見えて、現代人にとっては最も難しいことの一つです。

 なぜでしょう。それは、来るかも知れない未来に生きるほうが、今目の前にある現実に対処するよりも楽だからです。楽なように見えるからです。不確かな可能性の方が、今手の中にある現実よりもよいもののように思うのです。

 あるいは過去の中に生きることを好む人もいます。過去の楽しかった瞬間、よかった頃の思い出。懐かしいさまざまな出来事。多少のつらかったことも、過ぎ去ってしまえば、不愉快な部分は忘れて幾らかの飾り付けをすれば、よいものであったかのように見える。

 美しい思い出にアクセスして繰り返し楽しむこと自体に悪いことはありません。けれどあなたが今この瞬間に生きることをなおざりにして、目の前にある現実に取り組むのを先伸ばしにする理由として、過去を楽しんでいるのだとしたら、あなたは人生を生きてはいないのです。

  よく、「来年になったら...」「今の仕事をやめて新しい仕事につけたら...」「新しい友達、恋人ができたら...」という言葉を口にする人がありま す。けれどそのように未来の可能性を心待ちにする人に限って、実際にそれがやってきたとしても、それを楽しまないばかりか、いまだに足りない点ばかりを数 え上げて、再び未来のことを夢見るのです。またそれより実際に多いのは、未来の可能性を数え続けるばかりで、その可能性を実際のものとはできない場合で す。

 新しい職が得られたらすべてが変わると言う人に限って、今の職を去ることを厭うでしょう。新しい恋人ができたらと望む人に限って、今の恋人との中毒的な相互依存関係を変えることができないでしょう。

 問題は、状況にあるのではないのです。不満足な人間関係、不満足な仕事、不満足な人生、そこにあるのではないのです。問題は、自己の内にあるのです。

  今この瞬間にある、不完全な自己を受け入れなさい。それできずしては、未来はありません。未来の可能性は真に建設的な形で現実とはなりません。自己を愛し なさい。不満足な職、不満足な人間関係のただ中にある、その一見不完全な自己をそのままに受け入れ、そして感謝しなさい。自分が自分自身であることに。こ の宇宙の中で掛け替えのない存在であることに。

 満足な職が得られた時、完璧な人間関係が得られた時、自分に満足できるとあなたが思うなら、それは間違いです。今この瞬間に、不完全な自己を受け入れることができないなら、あなたは永遠に自己を受け入れることはできません。

  不完全さの中にある完璧さを見ることを学びなさい。それは想像されるほど難しいことではないのです。その芽はすでにあなたの内にあります。そのような至福 の瞬間は、ほんの一瞬、毎日の生活の内に形をとることがあります。その瞬間をとらえ、次にはそれをほんのもう少し、長引かせることに気を配りなさい。

  真の幸せとは大仰なものではありません。むしろ、今この時代に生まれたあなた方は、より精妙な形の幸せ、精妙な生の完璧さの表現を認める能力を求められて いるのです。それがこの時代のテーマの一つなのです。過去の時代のような、ドラマチックなヒーロー、悲劇の聖人、孤高の哲人——光を運ぶ者がそのような役 割を求められる時代は過ぎたのです。すべてがこの日常の中で、より微妙で繊細な形で、行なわれうるのです。そしてそれはむしろ、ある意味では難しいことな のです。外面的に劇的な形で生か死の選択を問われる人生ならば、自己を犠牲にして他を生かす選択を行なうことは、ライトワーカーの魂にとってはむしろやさ しい。しかし日常の 中で、一瞬一瞬の微妙な選択のうちに、自己と他に生をもたらす選択を絶えず行なうのは、かえって容易ではないのです。

  あなたがヒーローコンプレックスを抱いているなら、それは時代遅れのものだと知りなさい。自分の内に、あるいは外に、救世主を求めているなら、その願いは かなえられることはないと知りなさい。一人の優れた人間が他を導く時代は終わりました。今は水瓶座の時代なのです。すべての人が自分の手で選択を行ない、 自ら人生を、神との関係を築くのです。仲介者は必要ないのです。必要なのは教師であり、そして教師はその教え子をやがて自らの同僚となるべく育てるので す。

 少数のライトワーカーが多数の「大衆」を導くのではなく、別のライトワーカーたちを育てるのです。光はもはや独占されるものではなく、分かち合われるものです。

  ライトワーカーの道を歩むことで自分が特別の地位にあると考えるなら、また特別な権利を得ることができると考えるなら、それは誤りです。この世界において すでにライトワーカーとして仕事を始めている者は、先行く者ではあっても、絶対的な権威や恒久的なエリートではないのです。そして自分が人類のために働く ことを望む者であるがゆえに「普通の」人間が直面する日常的な出来事や生活の茶飯事、人間感情の複雑さに厭わされなくてもすむはずだと考えるなら、それは 幼い考えです。

 真のライトワーカーはむしろ、日常の些細な出来事、なにげない他者との人間関係やり取りの中に、一瞬一瞬の中に、 光を見るのです。このことがわかるでしょうか。外部にある光を仲介して誰かに与えるのではないのです。すでにそこにある光を見、そのことによって、その光 に形取らせるのです。光はすべての存在、あらゆる経験の内に、すでに宿っているからです。

 自己の内にある光を認めなさい。それが 他の人の内にある光をも認める第一歩です。些細な出来事の内にある至福の瞬間を認めることを学びなさい。それが地球を覆う大きな計画の全容を認めることが できるようになる第一歩です。自己の足元を固めることなしには、天に描かれた図面を読むことはできません。足元も見ずに頭を上げて歩くなら、遠からずあな たはつまづいて転ぶことでしょう。

 自己の内にすでに計画は敷かれてあることを信じなさい。そしてその信頼の内に、自分自身を見つ め、内面の自己と対峙する時間をとりなさい。そしてそこにある未だ癒されぬ自己、幼い頃に傷ついた子供のままの自己の言葉に耳を傾け、癒しを与える時間を とりなさい。そのこと自体がすでに、地球全体の癒しへとつながっているのです。なぜならあなたは地球の一部であり、それも他のあらゆる存在と同様に、真に 掛け替えのない一部だからです。

— ケレウス


自己実現の過程について

 アセンションプロセスというものについて、もう少し説明しましょう。

  先の号において、私のチャネルからも、またアセションプロセスを担当する天使自身からも説明があったように、現在いわゆる精神世界に一般に広がっているア センションの概念というのは、あまり正確ではありません。見ようによってはそれはむしろ、このプロセスを逆さまに解釈しているとさえいうことができるかも しれません。すなわち、ある人たちの言葉を借りれば「地球が五次元に移行し、それによって現在の物質レベルが破壊され、五次元に移行できない者は肉体の死 を遂げる」かのような印象を与えられているのです。

 しかしこれはそうではないのです。逆に、真のアセンションプロセスにおいて は、肉体レベルの転生がこれまで以上にしっかりと安定したものとなり、同時に肉体に転生している魂が、肉体を離れることなく、高いレベルの霊的現実に自由 にアクセスできるようになるのです。つまり、真の意味で、霊の世界と物質世界の幻のおおいが取り払われるのです。

 私が以前に挙げた比喩を用いれば、アセンションの状態に達した人間は、より深く地上に根を下ろし、同時により高く空へと伸びることができる。そうして天と地の掛け橋として、安定してその状態を保てるということなのです。

 このプロセス(過程)においては、何も「神秘的」なことはないのです。ただ単に人間として通過しなければらならい成長の過程を着実にたどっていく、これにまさるアセンションの加速法は存在しないのです。

  例えば特定の個人からエネルギーの伝授を受けることは、確かに一時的にあなたのエネルギーを昂揚させる効果があり、場合によってはしばらくの間、深い至福 の感覚に満たされるかもしれません。しかし、そのような経験は必ず色あせる時がやってきます。早くて数日、数時間、そしておそくとも数週間、数カ月後に は、「あれはいったいなんだったのだろう」と首をかしげて思い返すことになるでしょう。そして機会があれば「またあの経験をしたい」と願って、再びその個 人を、あるいは同様の伝授を行うと称する別の個人を求めて、出掛けていくのです。これはしかし、アセンションの過程を完全に他人任せにしていることであっ て、このようなやり方では、自己変容の最も基本的な段階さえ完了することができないのは、いうまでもありません。

 アセンションの プロセスは、自己の内から引き起こされるものです。それに必要なエネルギーも光も、すべて自己の内から発する、導きだされるのです。確かに外部にもさまざ まな助け手は存在します。しかしこのような助力的存在たち、天使、大天使といったパワフルな存在たちでさえも、与えることができる光の量は、あなたの内か ら輝き出す光の量に比例しているのです。そして自らの内にしっかりとした器ができていなければ、与えられた光やエネルギー、意識の変容を恒久的にとどめお くことはできないのです。

 私がこの時点であえてこのトピックについて語ることには理由があります。

 今は すべてのプロセスが加速しつつあります。これは確かにその通りなのです。過去の時代でいえば何十年、時にはいくつもの人生を必要とした量とレベルの意識の 変容、進化、カルマの浄化などが、単一の人生の間に可能になっているのです。先の例で言えば、かつてはこのようなエネルギーの伝授を受ければ、何年、何十 年もその影響下にあり続けることが可能であったのが、この時期においては、先に挙げたような短期間の間にその影響が失われていくことを意味します。つまり それが、全体視野的に見て自己にとって不健康なものである場合には、長い間その影響下にとどまっていることが難しくなっているのです。他方、望んで自己の 変革、成長に取り組むのであれば、目覚ましい魂の進化、成長も可能です。加速的に許容できるエネルギー量を増し、精神の鋭敏さを増し、感受性を高め、肉体 の調和度を強めていくことができるのです。

 これが昨年、私が送ったメッセージの意味でもあるのです。すなわち、自己成長のための環境として、これほど恵まれた時代はかつてなかったと。

  ですから、この環境を、チャンスを、できるだけ多くの人に受け取っていただきたいのです。それはもちろん強制ではありませんし、このチャンスを逃したから と罰を受ける、恒久的に魂の進化やアセンションの道程から外されてしまう、そのようなことはないのです。自己の道程を歩み通すための時期と方法は、あくま で個人の選択です。

 それでは具体的には何をしたらいいでしょうか。こう問う人が多いことでしょうから、その指針となるものを幾つか挙げておきましょう。

  第一に、希望や期待を切り売りする人々に注意しなさい。外的な力によってしか救いは得られないと語る人々に注意しなさい。どれほど優れた指導者あるいはパ ワーある人物に見えても、永続的な依存関係を要求する人々に注意しなさい。あなたを子供扱いし、すべての判断を取り上げて、あなたに代わって物事の判断を 行おうとする人々に注意しなさい。恐怖心を煽るすべての情報、そのような情報によってあなたを利用しようとする人々に注意しなさい。また何かを代償にその 恐怖からあなたを救おうと申し出る人にも注意しなさい。これらはすべてあなたを本来の道程から遠ざけるものです、時にそれらがどのように魅惑的に見えて も。

 第二に、この人生における自己の目的をしっかりと定めなさい。目的を持たぬ人は、まず目的を見つけることを当面の目的としな さい。そしてその目的に沿って、自己の人生のうちで何が不要でありながらまだ手放すことができないでいるか、また何が必要でありながら求めることができな いでいるかを、整理してゆきなさい。それを続けていけば、おそらく、目的を再度検討し、改める必要が出てくるでしょう。その時にはためらわずにそれを行 い、再度照準の合わせられた目的に沿って、さらに自己の内面と外部環境とを整えてゆきなさい。不要なものを手放し、必要なものを、勇気をもって求めてゆき なさい。

 この過程を繰り返すことで、自己の神聖なテンプレートが見えてきます。それはあなたが本来あるべき姿、神聖な自己の姿であり、鋳型、青写真です。金色の糸で織られた生命の設計図です。あなたの魂が完全にその姿を物質世界に表した時、そうあるであろう姿です。

 ただしそれは、思い込みや頭で考えた「理想的」自己像であってはなりません。頭で考えてそれを自己に押し付けるのではないのです。

  テンプレートは、自己の内から自然と形をもって現れるのです。憧れは他を模倣するためのものであってはなりません。その憧れによってかきたれられた思い を、自らの内奥へとつなげるのです。何かに憧れを覚える時には、きっとそれに対応する才能、要素、能力が自らの内に埋もれているのです。それを見つけ、目 覚めさせ、育てていく手間をとりなさい。これには時間と努力が必要です。けれどその時間と努力とは、過去のどの時代に必要とされたよりも少なくすませるこ とが可能なのです。かつては一生涯かけて磨きをかける必要のあった能力が、適切に道具と道筋を選び、情熱をもってそれに取り組めば、おそらくは数年のうち に、それに匹敵する形をとらせることすらも可能なのです。

 これはすべてあなた方の先達が築き蓄積してきた形態場の力でもあり、人 類の集団深層意識の進化のたまものでもあります。今この時代に生まれるあなた方のためにこの土台を築いてくれた過去の人類、生命達に感謝を捧げなさい。 (もちろんその中にはあなた自身が「過去生」として過ごした生命も含まれるのですが。)

 考えたことはありませんか。なぜ今の時代はこのように目まぐるしいのかと。それは事実、あらゆるものが目覚ましい速度で変化を遂げているからなのです、人間関係、意識の成長を含め。

  ですから、このことに希望を持って、自らの道を着実に歩んでください。事態が思うように進まないとあせってはいけません。あせりは恐れの一形態であり、そ れは自己の内で何かまだピントがずれていることを示します。自らのテンプレートが形を表し始めた時には、あせりの感情は次第に遠のいていきます。あせる必 要はないということが、内なる実感として感じられるのです。この瞬間瞬間において、自己の道程を自分自身のペースで歩む限り、道は必ず踏破される、完き自 己が必ずこの世界に実現されるという確信が生まれ、自己の内に根付くのです。

 この時代、この世界に生まれたことはまさに祝福です。それを快く受け取り、あなた自身の魂の滋養としなさい。

— ケレウス


道程の土台

  人間の本質についての理解・確信・経験を通しての確立は、すべての道のりの土台である。この土台なしにはどのように優れたヒーリングやセラピーのセッショ ン、自己を癒そうとする努力も、単なる経験に終わり、ゆるぎない安定性、明晰さ、存在の軽やかさをもたらすことはない。あらゆる過去の条件付けから自らを 解放し、魂の完全な自由を得ること。それによってのみ魂はあらゆる人の内に生きる神性という生きた炎の容器(いれもの)となることができる。人間とは多重 的存在であり、肉体とエネルギー、自我と魂、本源的本質のすべてが一つにつながり、整合し、すべての領域において自由に生き、活動することができるように なるのでない限り、真に自由であるとは言えない。これらの存在の各領域のあり方と仕組み、領域どうしの関わり方を理解し、自己の存在をすべての領域におい て解放するための知恵と技術は、この時代において再度掘り起こされ、磨きをかけられ、そして意識的な形で身につけられなければならない。全感覚的な能力の 開発は、そのステップの一部である。

 何よりも、自分がこれまで抱えてきた様々な条件付け、肉体、遺伝、家族、生育環境、社会、文 化、人間関係、教育、条件反射などを振り返り、整理し、不要なものを手放し、現時点において役立つものは意識的な形でそれを理解し、自らの内に統合するこ とが必要だ。これらを時間をかけて継続的に行い、かつ日常生活の中において新たな条件付けを受けないように、つねに魂の鋭敏さを維持し、反応の新鮮さを保 ち、本質的な自己の自由を失わないように努め続けること。手放すべき条件付けの中には、生育過程で身につけてきたトラウマ、防衛反応や、過去生からのすり 込みが含まれる。これらを手放し、自らの魂の自由と鋭敏さ、本源的な知恵をとり戻すために、あらゆる手段が用いられるべきであり、あらゆる領域がカバーさ れるべきである。肉体も、感情も、知性と思考能力も、とり残されてはならい。

 まだまだ多くの人は、いかに自らの魂が環境、とりわけて自らの家族による条件付けのうちに埋もれているかに気づかず、自己の魂のおぼろげな形さえ見きわめていない。

  条件付けが重く残っている時、人の経験する感情は不純物を多く交え、捕らわれがある時、経験そのものが足かせとなる。どのようにすばらしい経験であって も、それにとらわれる時、それを失うまいという恐れが生じ、あるいはまた経験したいという渇望が生まれる。そうして魂を縛り、あるいはその目をふさぐ。新 しい経験をしたとしても、それをありのままに経験することができず、前の経験と比較し、あるいは過去の経験によって新しい経験をも色づけてしまう。このよ うな状態にある人は終わることのない人間関係のドラマ、苦悩、物質レベルの不満足により悩まされ、どれほど自己を癒そうとしても、いつまでも状況に変化を もたらすことができない。これは魂が経験の魅惑によって変容のレベルに閉じこめられている状態である。

 自らの行動、言動、反応の 一つ一つを内省してみよ。自分のものだと思っていた考え方の、その根が両親や家族、生育環境などにより植え付けられたものであることが、想像を絶して多い のだ。これは自我の形成自体がそもそも、魂が外界と関わる過程で生じる条件付けに根ざしていることによる。自己の最奥にある生命の輝き、神の性質、それを 阻むものはすべて条件付けの一つであると知り、容赦なく剥がしされ。自己を内省し、不要なものを手放す道を歩み続けていく時、この過程は深まってゆく。

  とりわけてヒーラーという仕事につきたいと望む者たち。それもヒーラーという語のもっとも高い意味で、その仕事を行いたいと望んでいる者たち。この道を究 めよ。妥協なく突き詰めていけ。ただ自らの魂を見つめ、自らの道を見きわめ、それを自らの足もて歩むことによってのみ、他の魂の真の形を見いだし、その実 現のための手助けをすることができる。例外はない。

 絵を描く者よ、外面の形を追い求めることを止め、自らの本質の光によって世界 を照らすことを学べ。このような光によって照らされる時、世界はその真の色と形を顕わす。文を書く者よ、一つ一つの言葉の内に、音韻の内に、世界が含まれ ていることを知れ。言葉が神聖なものであることを今一度思い出し、無為に、また飾るために、言葉を綴ることを止め、言葉の中に宿る生命と自らの内なる光は 呼応するべきものであることを認識せよ。言葉となったものは、口にされるものも文字に綴られるものも、すべて生命を持ち、固有のエネルギーを発する。そう してそれを口にしたもの、綴った者は、それに責任をもたねばならない。

 真に自由な魂を通してのみ、人の本質である神性、本質、菩 提心は流れ輝くことができる。真の意味で人は超越ということを知り、同時に自らはすべての存在と不可分であるということを自らの経験として知る。ここにい たってより大きな自己の顕現、くもりない明晰さ、ゆるぎのない安定性、豊かで鋭敏であり、とらわれのない感情経験が可能になる。

 光の運び手たろうとするのであれば、恐れることなく、ゆるぐことなく、光を遮るものをすべて取り払ってゆけ。

L.E.
(1995年)

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