05. 自然 生命 動物 植物

フラワーエッセンスとフラワーレメディ講座(7)

花の神話

 花の香り、手触り、匂い、色、形は、人のもっとも深い部分にある本質を目覚めさせる、類のない力を持つ。

 遙か古(いにしえ)をさらに超えて、人がわずかに動物との境目を持ち始めた頃から、花は人の魂に語りかける特別の力を持っている。

 動物の持つ純粋な自然の智恵から、人が自らを隔て始めた時、花は人の魂の一部をその内に運び始めた。花の内に残り続けるのは純粋な美であり、さまざまな高い要素の原初の精髄(エセンティア)である。

 それゆえ、花は人の高い性質の写し鏡となった。

 花と出会うことは、自らが自然の内に残してきた魂の片鱗と出会うこと。

 それには数え切れないヴァリエーションがあり、変化がある。花の多様さは、人の魂が持つ要素の多様さの顕現だ。その多様さは、私たちの胸をたとえようのない喜びで満たす。

(原文は2003年8月にチャネリングしたものを改稿)

 

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2015年8月10日号(Vol. 35)

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フラワーエッセンス&フラワーレメディ講座(6) 「フラワーエッセンスとアルケミー」編

  先号に続き、フラワーエッセンスとアルケミーの関係について理解してもらうための資料として、2003年5月から2004年5月にかけて『ヒーラー&アルケミスト』に連載したチャネリング文を載せておく。以下は2003年7月「感覚と外世界の関わり」の後半。

フラワーエッセンスとアルケミーについて
  感覚と外世界との関わり (続き)
 
  by Overlighting Deva of Flower Essence

(続き)

 この、人の感覚を通して入るデータ自体が異なるという外的面と、データに対する各自の固有の反応という内的面をつきあわせる時、人間が共有することのできる現実(つまり「客観的現実」)は、驚くほど狭い範囲のものとなるのです。

 そしてそのようにまことに限られた範囲のみが、現代社会に生きる人々が「現実」と信じているものなのです。そのような社会に生まれた魂は、すでに 確立されたこの狭い現実に沿って、また与えられた肉体の限界に沿って、自分自身の感覚を限り、閉じ、それに応じた、限られた形の神経の反射路を形成し、大 人となっていくのです。

 このような過程が繰り返し何十世代、何百世代にもわたり積み重ねられ、感覚を物質世界という狭い帯域に集中させてきたのが、今この時点での先進文明圏での人間のあり方なのです。

 それはもちろん、科学的客観性を求めるという行為がまったく無意味であり、それを手放してしまうべきだと言っているのではありません。人間が物質 的な五感と、その延長である科学的な測定機器を用いて、すべての人に等しく確かめることが可能な科学的客観性を求めてきたことには、それなりの理由があり、意味があります。

 それは一つには、物質化と個人化の過程を通して互いに切り離された個々の人間が、同時に感覚を通して共通の現実を共有できることを確認し、それによって我々はつながっている、同じ一つの現実の一部なのだということを確認したいという衝動なのです。わかりますか。

 進化の段階の一つのステップとして、個人性というものを発達させるために、人間はより大きな存在のマトリクス、生命の意識の流れから自己を一時的 に切り離します。それは大きな視点からは事実ではないのですけれども、人間の自我は、孤児のように自らを感じ、深い乖離感を覚えます。

 つまり科学的追求の裏には、本来、宇宙の中のより大きな原理、法則を見つけ、そこに自らの居場所を見つけ出し、またこの物質次元においても自己と他者のつながりを確認したいという衝動があるのです。ニュートン卿やアインシュタイン博士など、真に偉大な科学者は、このことをよく理解していました。「科学は神の栄光を顕すためにある」といった言葉にそれはよく表現されています。
   
   ここで、あなた方、科学と宗教の本来あるべき姿をおぼろげなヴィジョンとして予感し、また思い出すことのできるあなた方は、自然との関わり方の原点に戻ることを求めてください。

 自らの五感とそれ以外の感覚を駆使して、自然を経験し、観察すること。経験を積むうちに、それらの感覚はさらにとぎすまされていき、また感覚を通して得られるデータに対して象徴的意味合いを与えるための内的な通路もより繊細なものとなっていきますます。感覚は固定されたものではなく、つねに変化 し、シフトし、新しい内的現実とともに開いていくものであること。同時に、自然という感覚の対象を通して、それは他者と共有し分かちあうことが可能なものであること。人の内的世界と外的現実が、自然を媒体として結びつけられるのだということ。

 このようにして得られる個々の経験は万華鏡の模様の一つであり、それらが何百、何千と集まることで、一つのより完成に近い世界のヴィジョンを作り出すことができる。そしてそのヴィジョンには完成というような状態はなく、限りなく変化し、より神の本質に近いものへと限りなく進化し続けるものであること。

 意識的に自然を観察する力を磨くことを通してあなた方は、自然の要素を物質的表現から象徴へと変える力を育てる。同時に自然という神の衣を、より本来あるべき形に忠実に描くことができるようになる。

 花の性質の抽出といった作業も、このような視点から行われなければなりません。
 

 アルケミーとは、外的な形質の中に象徴性を見、その意味を読みとり、そのことによって、かつ自然を仲介として、外的世界を変化させていく術(すべ)です。

(2003年7月)

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2015年4月10日号(Vol. 34)

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フラワーエッセンス&フラワーレメディ講座(5) 「フラワーエッセンスとアルケミー」編

 先号に続き、フラワーエッセンスとアルケミーの関係について理解してもらうための資料として、2003年5月から2004年5月にかけて『ヒー ラー&アルケミスト』に連載したチャネリング文を載せる(長いので何回かに分けて)。以下は2003年7月「感覚と外世界の関わり」の前半。

フラワーエッセンスとアルケミーについて
  感覚と外世界との関わり 

  by Overlighting Deva of Flower Essence

 感覚と外世界との関わりということについて話しましょう。

 多くの人間は、自分の目に映るもの、耳に聞こえることが「ありのままの現実」「唯一の現実」だと信じて疑うことをしません。五感を通して得られる感覚は、そのまま現実世界についてのデータであると考えます。

 しかしこれは、事実とはほど遠いのです。

 簡単な例からひもといていきましょう。

 あなたが見る赤色と、他の人が見る赤色とは、必ずしも同じものではないということに考えを到らせたことがありますか。

 芸術家たちは、同じ赤色と分類される色の間でも微妙な違いを見分ける能力を持っています。多くの人が「赤」と一緒くたに分類してしまう色を、何十種類もの異なる色合いとして感じ分けるのです。これは訓練による部分もあります。また生まれもっての特質として、視覚がより鋭敏である場合もあります。

 しかしそれよりさらに重要なのは、生育過程での視覚刺激の豊富さと、それによって築かれる神経細胞のネットワークの精度なのです。この結果、このような人は、微妙な波長の違いを感じ分け、それを「色の違い」として経験するのです。

 通常、電磁波の中で人が見ることのできる波長帯を可視光線と呼びます。これは赤から紫までのスペクトラムです。その両側には遠赤外線と紫外線という、人が見ることができないとされる帯域があります。同じ性質のエネルギーでありながら、異なる波長によって、人はそれを見ることができたりできなかったりするのです。

 しかし、見ることができないからといって、それは存在しないことにはもちろんなりません。

 そして、この「可視光線」の帯域は実は人によって異なります。ある人は他のひとよりもう少し広く、またある人は逆に狭かったりします。つまり、人によっては遠赤外線や紫外線と分類される帯域の電磁波を見ることができるのです。このような人の見る世界は、その「色合い」や、ものとものとの境界について、一般の人々の見る世界と幾分異なっています。

 そしてこれはさらに、人間と他の動物とでいっそう目立つ違いです。たとえば、ミツバチたちにとっては紫外線も可視帯域の一部で、目で見えることができます。彼らの視覚は、蜜のある花をより効率よく探すために整備されています。しかし同時に彼らは、人間が見て美しいとする花の色には大して興味はありません。

 聴覚について考えるなら、犬たちが、人間が聞こえるよりもはるかに広い帯域の音波を感じることができるのはご存じでしょう。犬たちにとっての音の世界は、人間のそれよりもはるかに精密で豊かです。このことだけでも、自分の五感にとらえることができないから、それは現実の一部ではないという考えに安住することの限界がわかるでしょう。

 そしてさらに、同じ波長をもった色であっても、それが人の内面に引き起こす反応は異なっています。生育環境や文化的条件付け、魂自体の記憶などによって、同じ赤色に対しても、千差万別の反応のパターンがあります。事実、それぞれの反応はその魂に固有のものであり、同じものは一つといってありません。

(後半に続く)

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2014年12月21日号(Vol. 33)

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フラワーエッセンス&フラワーレメディ講座(4) 「フラワーエッセンスとアルケミー」編

 先号に続き、フラワーエッセンスとアルケミーの関係について理解してもらうための資料として、2003年5月から2004年5月にかけて『ヒーラー&アルケミスト』に連載したチャネリング文を載せておく(長いので何回かに分けて)。

フラワーエッセンスとアルケミーについて
by Overlighting Deva of Flower Essence

 フラワーエッセンスと古典的なアルケミー(錬金術)について、幾つか話しましょう。

 あなた方の中にもすでに、現在フラワーエッセンス療法として「発見」され、発展しつつある療法の技術が、実際には新しい発見ではなく、古代に存在していた智恵の再発見であるということについてご存じの方もあると思います。

 アロマセラピーや薬草学とともに、花と植物によって介在される様々な癒しの方法は、現在「有史前」と分類される時代よりさらに遡って、人類の普遍的知識の一部でした。

 当たり前であった知識が失われ、知識や智恵の伝承は分散して断片となり、そのもとの姿が読みとれなくなって忘れ去られるというのは、過去何万年にも及ぶ人類の歴史のいわば習いです。

 そうしてこの何万年かの間に、人類の存在形態と意識の機能レベルが徐々に変化するにつれ、いったん忘れ去られ、あるいは分割されてしまった智恵や知識の体系を取り戻し、過去にあったそのままの形にまとめ直すことは、ますます難しくなっていきました。

 最初にこれらの知識と智恵の体系が確立された時代は、人類の意識がおもにアストラル界を中心として機能しており、そのレベルにおいて植物のエネルギーを観察し、また植物と直接的に感情の交感を行い、その性質を知ることが可能であったからです。

 しかし人類の意識の機能の中心がより物質に近く、知性のレベルに移行するにつれて、それより精妙なアストラルのレベルからの情報を直接的に得ることは次第に難しくなり、やがてそのような情報を得る能力を持つには、一部の家系を通して遺伝的に「才能」として受け継ぐか、幸い一部で温存されてきた伝統的知識の体系に基づいて、先達からの長い特別な訓練を経て能力を磨くことが、必要になっていきました。 

 国や文化によっては、このような知識や能力を温存することが比較的容易な環境が存在していた場合もあります。西洋文化による支配が始まる前のアメリカもそうです。現在の地球上でも、このような環境が残されている地域が少数残っていますが、その多くは急激に失われつつあります。

 そしてとりわけ、知性を発達させることをとりあえずの進化上の課題とした文明圏においては、めざましい知性の発達と反比例するように、この能力はきわめて短い期間の間に閉じられていきました。

 いわゆる近代科学の発展期間を経て、西欧文化圏、そしてそれにつらなる近代化されたアジア文化圏などでは、それを完全に忘れ去ってしまって、過去の迷信や根拠のない言い伝えとしか考えない人の方が多くなっているほどです。

 そして、それでは人類は、このかつてすべての人類によって共有されていた能力を再び、昔のような形で回復させるべきなのでしょうか。

 それは、そうではないのです。人類が、このような能力を閉じて知性と左脳の機能を発達させる道のりを選んだことには、意味があるのです。

 それはつまり、感情と知性、右脳と左脳、第4チャクラと第3チャクラをいったん切り離し、知性、左脳、第3チャクラが一定レベルまで発達するのを待った上で、その上で改めて統合を行い、それまで存在していなかった意識の機能を発達させることが、その目的だからです。

 ですから、過去の人々がもっていた能力をそのままに蘇らせようとする必要はありません。そうではなくて、これまで人類の意識の進化の中で成し遂げられてきたことを踏み台として、新しい形で、より広い世界とのつながりを、より意識的に開き直すことが必要なのです。

 アルケミーの方法論はとても象徴的です。それはアルケミーの研究書を読まれた方なら、ご存じでしょう。そしてその象徴が何を意味するのかを読み解くことは、研究者ごとにまったく意見が異なっています。

 それを文字通りに、物質世界のレベルに限って解釈したのが中世の表面的なレベルで「鉛から金を生み出す術」を追い求めた人々です。それを完全に心象内の象徴と解釈したのが、精神分析医のユングとそれに続く研究者です。

 けれどもこの術に本当に導き入れられた人たちは、知っていました。記録に残された方法論は、象徴を外的になぞったものに過ぎず、単なる手がかりであって、その内部にそそぎ入れられるものこそが肝要なのであると。

 しかし同時にまた、象徴的であるがゆえに、それは時代を超えて生き残り、新しい生、新しい段階に、限りなく応用し続けていくことができるのです。

 アルケミーの書の方法論が、人間の魂の進化の方法論についてのメタファーであると考えて読んでみると、多くのことが得られます。

 一つ一つのステップが「実際に、具体的に」何を意味しているかということよりも、そのようなステップが人間の魂の進化と変容の道のりにおいて何を象徴しているのかということを、思い浮かべながら読んでみるのです。

 このようにして、古代の智恵と知識を、今現在の地球、今現在の人類の意識の進化の段階というコンテクストに当てはめて、もっとも適した形に生まれ変わらせること、それがあなたたちの仕事です。

 そしてそのために必要な道具があります。それは、第一に人間としてのとぎすまされた意識です。第二に、肉体のレベルを超えてより広い世界へと感覚を広げ、コミュニケーションを行い、得たものを持ち帰り、自己に統合する能力です。第三に、それを物質世界の中の法則性によって整理し、そこで用いられるのに適した形に表現し、それを他の人々と共有することです。

 別の言い方をすれば、いったん分割された世界を再度自己の内において統合し、そのことによって分割された外なる世界を統合する、そのような能力です。フラワーエッセンス、あるいはエネルギーを用いたヒーリングといった仕事に惹かれて来る人たちは、エネルギーと物質という二つの世界を統合する、その作業にこそ惹かれて来るのです。

 それは、いつの時代にもアルケミストたちによって理解されてきたように、目の前にある物質世界の中に、目に見えぬ宇宙の普遍的法則を読みとり、理解し、同時に目に見えぬ世界の中に、物質レベルの形と現象を可能にする鍵を探り当てる能力です。

 このような作業のための準備を、人類は長い歴史を通して行ってきたのであって、物質世界とエネルギー世界の分離がもっとも進み、ある意味では物質世界の重さが底を打った、地球上におけるインヴォリューションの周期が底をついたのが20世紀であり、そうしてそこから人類は、再び統合への道のりを歩み始めつつある段階にあるということができるでしょう。

 そしてそのための鍵は、自然の中に、そして自然を読み解く手引き書としてのアルケミーの方法論の中に、ちりばめられています。

 ここではその方法論の中から、もっとも大切な一つを引くにとどめましょう。

 「自然の法則を理解せんとする者は、自然の言語を読みとること、その色、香り、手触り、感覚を通して得られるすべての繊細な言語を読みとることを学べ。

 一つの花の中に込められたすべての言葉を解読することを学ぶ者は、それと同じ法則が宇宙の中のすべての存在物に生きていることを、体験を通して知る。自然の言語は、人間の言葉を通しては学ぶことはできない。それは五感とそれを超える感覚を通して、魂と肉体にとっての生きた経験として学ばれねばならない。」

(2003年6月)

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2014年9月16日号(Vol. 32)

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フラワーエッセンス&フラワーレメディ講座(3) 「フラワーエッセンスとアルケミー」編

フラワーエッセンス、フラワーレメディってなんだろう
「フラワーエッセンスとアルケミー」編

  先号に続き、フラワーエッセンスとアルケミーの関係について理解してもらうための資料として、2003年5月から2004年5月にかけて『ヒーラー&アルケミスト』に連載したチャネリング文を載せておく(長いので何回かに分けて)。

序 論
by Overlighting Deva of Flower Essence

(続き)

  そうして次に、動物界と人間界があります。動物界での表現の中心となるのは、アストラル・レベルのエネルギーです。これは人間も同じです。というのはもちろん人間も動物界の一員でもあるわけですから。

 違いは、人間はさらに、意識的な精神性をその存在の表現に加えている点です。それを除けば、人間は基本的に動物です。あるいは、意識的な精神性をあまり発達させずに生きるのであれば、その人の存在表現は、動物たちとあまり変わりません。というより、動物たちが有している本能の知恵から乖離している分、その人生は難しいものになりがちであると言えるかもしれません。

 このようにして見てくると、フラワーエッセンスの働きの仕組みの鍵ないしエネルギーの乗り物となるのは、アストラル・レベルのエネルギーであることがわかります。

 ただし、それだけではありません。このエネルギーを個々の形にパターンづけている、一つ一つのいわば枠型があるのです。それがアーキタイプ(元型)とも呼ばれる、エネルギーのパターン、テンプレート(鋳型)です。エッセンスの乗り物となるのがアストラル・レベルのエネルギーであり、それを形づけ るのはテンプレート・レベルのエネルギーなのであって、したがって、フラワーエッセンスが生成されるためには、この両方について理解され用いられることが 重要です。

 そして植物と動物の関わりにおいて、このアストラル・レベルのエネルギーが仲介役となる、ということも理解できるでしょう。

 けれども、アストラル・レベルのエネルギーは同時に媒体、仲介役であって、「エッセンス」、本質ではありません。ここでは、生成されたフラワー エッセンスと、この「本質」を意味するものとしてのエッセンスを区別するために、後者をエセンティアと呼びます。これはラテン語で、エッセンス(本質、実 在、存在、精)を意味します。

 エセンティア自体を花から水に移すということはできません。花のエセンティアをフルに経験するためには、その花とともに在らねばなりません。です から、エッセンスの生成において行われるのは、このエセンティアのパターンをテンプレートレベルのデータの形で、水にエンコーディング(転写する、刻み込 む)ことです。

 このパターン化とエンコーディング自体はアストラルレベルではなく、テンプレートに基づくプロセスです。エッセンスの生成に関与する私たちデーヴァと呼ばれる存在が、テンプレートレベルの存在であると言われることも、これに関係しています。

 さて、このような原理で生成されたエッセンスは、その作用を、要素の対応、すなわち共振性によっています。植物と動物とがそれぞれ地上に形をと り、成長し、種を長らえ、また進化していく過程で有し、発達させてきたたくさんの要素、それらは周りの環境との関係において形成され表現されるものですが、それらの間にある対応関係に気づき、読みとることが、個々のフラワーエッセンスの働きかけのパターンを読みとる際に鍵となるものです。

 ですから、フラワーエッセンスについて理解するためには、その植物自体を理解することが必須である、植物に触れ、観察することが大切である、と言われるのです。

 そしてそれと同じことが、動物、そして人間についても言えます。植物に接し、その色、形を見、匂いをかぎ、手触りを確かめ、その生育の場所を肌で感じとるのと同じことを、動物、人間に対しても行わなければなりません。その種の特徴について理解し、体の形態と機能について理解し、自己表現の方法について理解しなければなりません。

 現に人間、そして動物に接して、その声を聞き、姿形を見、肉体や感情を通して、その存在の表現を感じ取って、そこに表現されている種として、また個体としての特徴、要素をよく見極めなければなりません。人間と動物の観察において注意が必要とされるのは、植物においては個体性、個性というものはあまり重要でなく、種の中で比較的均一であるのに対し、動物においては種の特徴と合わせて個体の個性というものが存在し(これは魂の性質と関係します)、それはさらに人間において個体間の個性の違いが大きく、また重要になってくるという点です。

 ですから、あなたが本当にフラワーエッセンスについて、そしてそれを用いた療法について理解したいと望むなら、単純化されたマニュアルやガイドブックに頼ることを止めねばなりません。それはあくまで初期の学習の手引きとして、ある程度の知的理解が身に付いたなら、何よりもまず家の外に出て、野や 山に出て、植物を見ること、そして自分のまわりの人間や動物を見ることを始めなければなりません。

 自分で観察し経験して得た知識に基づかない知識は乾いたもの、ある意味で生命を欠くものです。もちろん、優れた執筆者によってまとめられたレパー トリからは得るところは多くあります。しかしそれとても、あなたがその文字のみに頼り、定義に頼ろうとするなら、ある時点を越えて、先に進むことはできな くなるでしょう。

 人間は進化している、動物も進化している、そして植物もコンスタントに移り変わり、環境に適応しています。今世紀の初頭に適切であった定義が、今この時点では完全に当てはまらなくなる場合も当然あります。

 個々の国や文化にはまた特有の個性、共有される文化圏、民族の魂と呼ばれる個性があります。一つの国において有意義な定義が、別の国においてはそれほど意味をなさない、あるいは別のより適切な定義が存在することもあります。

 なぜなら、定義はあくまでも、扱われるエセンティア(本質、精)を、いくつかのフィルターを経て、人間の限られた経験を通して言葉にしようとする試みだからです。そしてこのフィルターには、言葉、文化、国の風土といったものが、必然的に関わるのです

 その意味では、定義はコンスタントに集積され、作り替えられ、生まれ変わり続ける必要がある、ということができるでしょう。そのようなプロセスを恒常的に維持してのみ、それは生きたものとなり得るのです。

(続く)

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2014年6月9日号(Vol. 31)

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フラワーエッセンス&フラワーレメディ講座(2) 「フラワーエッセンスとアルケミー」編


フラワーエッセンス、フラワーレメディってなんだろう
「フラワーエッセンスとアルケミー」編

 さて次に、フラワーエッセンスとアルケミーの関係について理解してもらうための資料として、2003年5月から2004年5月にかけて『ヒーラー&アルケミスト』に連載したチャネリング文を載せておく(長いので何回かに分けて)。

序 論
by Overlighting Deva of Flower Essence

 人間、動物とフラワーエッセンスの関係について話すためにはまず、植物、動物、そして人間のあいだの関わりについて話しましょう。

 地球上の生命が大きく鉱物界、植物界、動物界、そして人間界に分かれることはご存じですね。人によってはこれにデーヴァ界を加えて5つの界(王国)と見なします。これが地球上の生命の流れをおおざっぱに概観するための枠組みです。

 鉱物界はいわゆる石や鉱石、水晶など、自然界の中にあって科学者によって「無機物」と見なされる生命存在です。「動かないから、増殖しないから、生命でない」というのがその理由です。

 しかし、石や水晶を手に取ったことのある人ならきっと、それぞれの石や水晶には何か固有の存在感があって、時には「性格」のようなものさえ感じることができるのを経験したことがあるでしょう。

 それは時には「自分のことを好きなようだ」「エネルギーをくれる感じ」といった感覚として経験されます。まるくきれいな形をした石を見た時には「きれいだ」と思い、うれしくなる感じがあるでしょう。しかしその石が欠けてしまったら、なんだか残念なような、悲しいような気分になります。結晶構造に沿ってきれいな秩序を見せている水晶などならなおさらです。

 これは、それぞれの石や水晶にはまとまった全体性があり、それをそれらしくしている秩序があり、一つのまとまった存在たらしめているという、広い意味での生命存在を定義する特徴があるからです。

 もちろん、石や水晶には神経や感覚器はないので、科学で定義されるような意味で感じたり考えたりすることはありません。しかしそれはたとえば石や水晶が「感じない」ということとイコールではありません。また、同じように科学で理解されるような形で動物が持つような記憶能力は持ちません。しかしそれは、これらの生命存在の中に、それがどのように生成され、どのような土の中で眠り、地上に掘り出され、どのような人に所有され、扱われたかの情報を保持していないということと、イコールではないのです。

 事実、水晶は優れた情報の保持体であることを科学者は理解し、それを半導体として活用しています。しかしこの情報を記録し保持する性質は、より広範で、幅の広いものなのです。

 このように、どのように生成され土の中で時間を過ごしたかの情報と、その鉱物に固有の性質(これは成分組成、結晶構造、硬度などの形で科学者には理解されます)との合わさったものが、その鉱物に固有の性質ないし性格、つまりエッセンス(本質)の表現です。

 これをより高く精妙な視点から理解し、人間の性質と対応関係を見つけることができれば、これらの鉱物の持つ「周波数」(エネルギーの振動率によって表現されうるエッセンス(本質的性質))を、媒体としての水に写し取り、共振作用を通してそれに対応する性質を人間の中で目覚めさせることができます。

 わかりやすい対応は、たとえば色です。赤い色は、ルビーやカーネリアンの赤として表現されても、さまざまな花の赤として表現されても、人間の血の色として表現されても、また第1チャクラの赤として表現されても、生命エネルギーの同じ表現です。それは等しく脈動する生き生きとした生命の表現であり、地球の熱い赤色の核と呼応して、熱や根元的な生命感を刺激し、思い出させます。

 ここで心に留めなければならないのは、すでにその存在の本質の中にその要素が存在しているからこそ、他の生命存在からの対応する転写エネルギーのパターンが、それを刺激し、目覚めさせることができるのだという点です。そこにないものを目覚めさせることはできません。ないものを表に引き出すことはできません。

 他方で、これらの対応関係を読みとり理解するには、ごく表面的な色形を見るだけでは十分ではありません。たとえばヘマタイト鉱石の、目には黒色と見える色には、実際には多くの赤の要素が含まれています。この石が第1チャクラに関係し、大地へのグラウンディングを促すと言われるのは、このことと関係しています。

 さて、鉱物界の次に、植物界があります。これは珪藻、藍藻類のように比較的単純なものから、裸子植物、被子植物といった現在の複雑に進化したさまざまな植物を含みますが、この中で、フラワーエッセンスに関与するのはもちろん、花を咲かせる植物たちです。花を咲かせるということは、植物たちの進化の過程において、特別な意味を持ちます。

 植物たちは基本的に、エーテル・レベルのエネルギーを中心に存在する生命ですが、花のつぼみをつけ、そしてそのつぼみが花となって開花する間、そして実になるまでのしばらくの間、花のまわりに強いアストラルレベルのエネルギー・フィールド(場)が形成されるのです。

 人間のエネルギー・フィールドについて学んでおられる方はご存じだと思いますが、アストラル・レベルのエネルギーは、通常は人間を含む動物以上の生命によって表現され、感情および感情を伴う関係性と関係しています。ここから、通常、植物と動物や人間の間に可能でないような直接的な結びつきないし対応が、花の開花期には可能になるのです。

 考えてみてください。花が、どうしてここまで人間の心を動かし、感情に訴えるのか。それは単にその色や形の美しさのみによるものではありません。花が咲いている間にのみ可能な、植物界と動物界の間に開かれる魂のレベルのコミュニケーションがあるのです。

 ですから、この意味で、フラワーエッセンスは花の咲く植物から、そしてその花が開花中に作られることに意味があります。葉や茎のみから作られたものや、あるいは花の咲かない植物から作られたエッセンスは、このような感情に強い共振作用を持つ性質を有しません。また、植物以外のものから作られたエッセンスも、その性質や働きにおいて、大変異なるのです。

 興味のある方は、試してみてください。つぼみがついたばかりの植物、ちょうど開花を始めた植物、そして満開の時の植物。これらのそれぞれの時期において、その植物の茎や葉、そしてつぼみや花のまわりを、指でそっとたどってみてください。触れるか触れないかぎりぎりのところまで、そっと手を近づけてください。花のあたりと、茎や葉のあたりでは、明らかに手触り、エネルギーの質が異なっているのが感じられるでしょう。

 目を閉じると、その違いがもっとよくわかるかもしれません。片手をハートに当て、もう片方の手を花に伸ばし、実際に触れててごらんなさい。花のエネルギーが、自分のハートに流れ込んで語りかけるのを感じることができるはずです。そしてこれは、葉や茎から伝わってくるエネルギーとは、とても異なっているのです。葉や茎など緑の強い部分は、基本的にエーテル・エネルギーの表現です。樹木の茶色い幹や枝なども同様で、これらはさらに大地との強いつながりを表しています。

(続く)

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2014年3月14日号(Vol. 30))




参考

1. フラワーエッセンス・ヒーリングの方法論 
  2. エドワード・バック(Bach、バッチ)『The Twelve Healers & Other Remedies(癒しをもたらす12の植物とその他のレメディ)』全文翻訳
    パート1  パート2  パート3

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フラワーエッセンス&フラワーレメディ講座(1) フラワーエッセンス、フラワーレメディってなんだろう 「思い出」編


 
 
 


フラワーエッセンス、フラワーレメディってなんだろう
「思い出」編

 そもそも「フラワーエッセンスやフラワーレメディって、何だろう」ということについて話したいのだが、その前にちょっとフラワーエッセンス・フラワーレメディとの個人的な関係についてふり返って、書きとめておきたい。

 書き手の視点とその背後にある個人的な経験について理解することは、誰かから何かについて踏み込んで学ぼうとする時、とても役に立つ。

 私が最初にフラワーエッセンスの手引きを受けたのは、1993年、アメリカのBBSHという当時躍進中だったヒーリングスクールの学生だった時だ。第3学年の主任教師スーザン・ウルフェルダー女史は、アメリカでバック(バッチ、Bach)レメディの最も優れた研究家・実践者だったジェシカ・ベアー医師の弟子だった。

 ウルフェルダー女史は優れたヒーラーで、フラワーエッセンスの熱烈な信奉者でもあり、自分のヒーリング・セッションにもベアー医師のやり方でフラ ワーエッセンスを組み入れていた。それで第3学年のあるクラスで、自分の持ち時間をフラワーエッセンスの講義に当ててくれたのだ。

 このメールマガジンを読んでいる多くの人は、初めてフラワーエッセンスというものについて知った時、「これだ!」と思うところがあったのではないだろうか。「何だかよくはわからないが、これなんだ!」という感覚。

 私が経験したのもそれで、ウルフェルダー女史の講義が終る頃には、フラワーエッセンスについてもっと学びたい思いで一杯だった。女史に話すと「私よりも直接ジェシカ・ベアーから学びなさい」と言われ、連絡先をもらった。さっそく問い合わせをして、次のクラスを待った。

 ここからフラワーエッセンスと私の長い関係が始まる。

 ベアー医師からの学びの経験については、短いあらましをこのメールマガジンや『ヒーラー&アルケミスト』の過去の号に書いている

(以下は『フラワーエッセンス Essence, Remedy and Healing』2008年3月27日号(Vol. 16)から引用、一部加筆

 ジェシカ・ベアー医師(自然治療医、神学博士)は、私が知る中で、アメリカでもっとも深くエドワード・バック(Bach、「バッチ」)のフラワーエッセンスを理解し、もっとも高いレベルで使いこなしたフラワーエッセンス療法家・研究家でした。

 私自身にとっても、FESのリチャード・キャッツとパトリシア・カミンスキと並び、大きな影響を受けたフラワーエッセンス療法の教師でもありました。

 エドワード・バック(Bach、バッチ)医師と同じように、医学とホメオパシーからスタートし、やがてホメオパシーに一つの限界を見て、フラワーエッセンスによる治療へと移っていった人でした。そしてバックの39種類のフラワーエッセンスとホメオパシーの中のセルソルトだけを使って、心と体のあらゆる病気に向かい合った、信念、勇気、そして卓越した技量の備わったフラワーエッセンス療法のプラクティショナーでし た。

 肉体と心のどんな病気も、フラワーエッセンスで治療が可能だという信念をもち、同時にただ信念だけではなく、実際に患者の治療に当たって病気症状を癒していく技量が備わっていたところが、ベアー医師の素晴らしさでした。

 その治療は、多くの人にとって、ほとんど神業でした。

 あるクラスでは、難聴で何年も右耳の聴力がなく、医者にいっても治療方法がなかったという女性の聴力を、15分足らずのフラワーエッセンスだけの治療で、聴力を回復させてしまったのを見ました。あるいは関節炎を患い、やはり医師の治療ではどうにもならなくなっていた年配の女性の手をフラワーエッセンスで治療し、即座に痛みや炎症をとったこともありました。

 それはまさに目を見張る経験で、フラワーエッセンスの可能性について、私の心に強い印象を与えてくれました。

 エッセンスは、ただ気分を整えたり、内的な変化を引き起こすだけではない。使い手が十分な技量をもつ時、それは本当にパワフルな肉体レベルのヒーリングの媒体にもなる。

 ベアー医師はよくこう繰り返しました。「今はたくさんのフラワーエッセンスが出回っているけど、私にはバックの39種類だけで十分。バック・レメディは、一生かけてもまだ学びつくせない」。

 まさにバック・レメディに一生をかけた研究者・治療家であり、そしてだからこそ、そのパワーをとことんまで引き出すことができたのだとも言えます。ベアー医師の治療技術の背景には、「高い力」への信頼、エッセンスと人間を結びつける法則と仕組みの理解、そしてエッセンスのパワーに対する揺るぎない信念。こういったものが一つの力となって存在してました。

 この、エッセンスを使いこなすための背後のパワー、エネルギー、器を築くことが、プラクティショナーの学びと成長の過程であると思います。それがエッセンスの定義や植物学についての知識と合わさる時、本当に「魂のアルケミスト」と呼べるようなフラワーエッセンス・ ヒーラーが誕生すると思うのです。

 ベアー医師からはまた、フラワーエッセンスを単なる「びんに入った花の水」ではなく、何よりエネルギーそのものとし て、また「知性ある生き物」として扱い、使いこなすことを学びました。私がずっとフラワーエッセンスの講座で教えている(そして今では日本でも、私のもと で学んだ多くの人によっても引き継がれている)、手のひらでたたいて服用ボトルを活性化するテクニックも、ベアー医師から受け継いだものです。

(引用ここまで)

 学びの道のはじめにこんな優れた教師に出会えたことは、なによりの幸運だったし、私をベーア医師のもとに送ってくれたウルフェルダー女史にも感謝は尽きない。

 すべての天才的なヒーラーや治療家同様、ベアー医師について文章で書くことは難しい。もっとも大切な教えは、その人という存在からエネルギーを通して、その場に居合わせた者に伝えられるものだから。

 この頃に私が経験した、ベアー医師の自然と花の力に対する燃えるような信仰と信念は、年を追って私の中で育ち、長い道を歩く中での灯(あかり)となってきた。それを私は他の学び手たちに伝えていきたいと思っている。

 ベアー医師はエドワード・バックのこの言葉をよく引用した。「すべてのものを創り出された偉大なる創造主は、その愛のゆえに、癒しをもたらす薬草を野に配された。このことに、我らのハートがつねによろこびと感謝で満たされてあるように」。

 「創造主」という呼び方は日本では馴染みや実感がないだろうが、表現を変えればこういうことだ。

 フラワーエッセンス、フラワーレメディという花からの恵みを活用するには、それを与えてくれる、母であり父である自然からのすべての生命への愛を信じる力が必要なのだ。

 この力が、フラワーエッセンスを癒しの道筋として用いるのに欠かせない要素であり、核心(ハート)だ。

 フラワーエッセンスの使い方を学ぶということは、自分自身と自然との関係を結び直し、自らの手でその恵みを受けとる方法を学ぶということ。

Flower Medicine: Essence, Remedy, Healing』2013年10月9日号(Vol. 29))




参考

1. フラワーエッセンス・ヒーリングの方法論 
  2. エドワード・バック(Bach、バッチ)『The Twelve Healers & Other Remedies(癒しをもたらす12の植物とその他のレメディ)』全文翻訳
    パート1  パート2  パート3

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自然、生と死、季節の巡り

<チャネリング・メッセージ>

自然環境を担当するデーヴァ

 自然環境の調和と健全さを担当する私の視点からは、生命同士の関りは、つねに相対的なものとして、より大きな視野から捕らえられるものです。すなわち、個々の個体が生態系内において占める位置と価値は、つねに全体としての自然との関りのうちに、見られなければならないのです。

 生態系内において、また進化の流れ自体においても、個々の生命はしばしば、全体の、また自らが属する種の『捨て石』あるいは『踏み石』となることがあります。それによって必要な変化が引き起こされ、あるいは諸条件が維持され、より大きな調和と均衡、あるいは進化のステップが可能となるためです。この現象面だけを人間の限られた知性と認識で解釈するなら、『自然とは過酷なもの』ということになるで しょう。けれども、そのような『捨て石』ないし『踏み石』となる個体は、より深いレベルでの自然法則とのつながりにおいて、そのことをよしとして自らを供 することに同意しているのです。これが愛、人間が一般に理解するよりも、より深く根源的な意味で生命の内を流れる愛というものの本質的な表れです。そしてその愛は自然法則の側からも個々の生命に対する育みの力、慈しみとして流れる、双方向のものです。このような生命の土台としての根源的な愛なしには、物質 レベルでの生命形態自体が成り立たないことに気付いてください。

 そして、種と種との葛藤が問題となる時(実際にはそれは葛藤では ないのですが、人間の視点からはこう理解されるのです)、たち帰らなければならない視点は、これです。自己の経済的利害やテリトリー維持の問題に神経を逆立て、あるいは頭を悩ませる前に、まず、問題の本質に帰っておいでなさい。すなわち、私の視点からは、こういう質問に置き換えることもできます『より大きな環境全体を見渡し、そこに一層の調和を、より健全で成熟したレベルで築くために、あなたはどのような個人的犠牲を払う準備がありますか』と。そしてその『犠牲』はもちろん、本当は犠牲ではないのです。他者に強いられて払う代価は犠牲ですが、自らが愛をもって自由意志から選択する時、それは『捧げ物』、 『贈り物』となるのです。

 この意味で、人間が種として成熟するための次のステップは、生命に内在する根源的な愛を、意識的な形で理解し体現し始めることだと言ってもよいでしょう。

生と死の巡りを司るデーヴァ

 死とは、収穫の時期だ、と考えてみるがよい。生命が物質世界に形をとり、育ち、経験を積み重ね、そうしてたくさんの煩雑な経験をより分け、もっとも本質的な学びと智恵の精髄(エッセンス)を手に、次の成長段階へと旅立つためのその中継ぎ地点でもあると。

 あたたかな思い出、幸せの経験を、もう一度味わい直し、悔いの残る経験についてはそれがなぜか、今、それを変えることはできないかを振り返り、変えることのできないものは静かに手放し、変えることのできるものは変える最後のチャンスと。

  動物は自らの死の時期を知っている。そうしてそのタイミングを個体の経験と種の智恵を合せもって選ぶ。一見事故死や不測の死と見えるものも、多くは計画と 選択によるものだ。だが人間は、とりわけてその動物を愛した人間は、この選択の意図や内容が見えない。そうしてしばしばその死にこだわりまた自らを責め、 学ばれるべきレッスンは取り残されることになる。

 人よ。生を選んだその時点で、すべての生命は同時に、死を受け取ることに同意し ているのだ。どうして自らの種のみが死について考え理解することができると考える? むしろ生命の智恵から切り離されていない動物たちは、よく死ぬことを も忘れていない。だがその過程、とりわけ病気が関る際に、その死の旅路を難しくするのは、人がその動物の生と死に込められた意味を読み取れない時だ。ある いはささいなことにばかり、自分の感情を投影し過ぎ、本質的なテーマを見落とす時だ。

 今も心を去らぬ動物との別れがあるだろう か。悲しい思い、つらい思い、また悔しい思いがあるだろうか。ならば、もう一度その思い出を訪れ、何が本質的なメッセージだったのかを自らに訊ねつつ、経 験を再体験してみるがいい。自らのいたらなさから来る後悔? 後悔せよというのはその動物からの本質的なメッセージではなかったはずだ。わかっていながら するべきことをしなかった、そのような時に後悔の念は生まれる。ならば、メッセージは、自らの直感を信じ、なすべきことは実行せよ、ということだ。次にそ のような場面に出会ったなら、同じ間違いを繰り返すな、ということだ。「こうしてあげることができたなら」と悔いるなら、次には悔いずにすむように、今目 の前にいる生命に感じたままに愛情を注ぎ、ともに満ち足りて生きよ、ということだ。

 動物は生命の本質的な智恵に満ちている。だが彼らは言葉を通しては語らない。かわりに自らの体を、行動を、生と死を通して語る。そのような形で語られる智恵に耳を傾けよ。

 そうして痛みを、悲しみを恐れるな。愛する限り、深く感じる限り、これらはついてまわるもの。生が死と切り離されては存在しないように。愛さなければ、愛するものを亡くす悲しみも経験しないだろうが、それは死を恐れて生まれてくることを避けるようなものだ....

生の循環を司るデーヴァ

変容 — 季節と時の巡りについて

 変化とはすばらしいものではないか?! 人よ、心してあれ。

 何かを忘れ始めた時、何かを見失い出した時、魂が鋭敏であるほどに、道のりをより遠くまで歩み通してきたほどに、メッセージはすばやくやって来る。長くは眠り続けることはできない。

 ああ、そして変化とはすばらしいものではないか?! 季節の巡りなしには、必ず訪れる厳しい冬なしには、春のあたたかさ、夏のまぶしさ、秋の豊かさを存分に感じることを人は忘れるだろう。そして冷たい風の吹く冬の中にも、小さな日だまりを見つけることができる。

  そのように、変わる季節にしなやかに身を沿わせ、その巡りをよろこびをもって迎えることを学べ。全身全霊をもって、ありとあらゆる感覚をもって、季節の与 える贈り物を十分に受け取るがいい。自己を開き、優しい春風も痺れる北風、西風も、同じように感覚を深く、広く開いて受け入れるのだ。

  一人の人間が別の人間に伝えられる智恵の中で、自然が与えることのできないものは一つもない。目を開き知性を開き魂を開いて見つめるなら、宇宙の万象を理 解するためのすべての智恵が、そこにある。人間はその無限の智恵の幾分かを切り取り、小さな箱に押し詰めて「科学」「知識」等と呼んでいるに過ぎない。

  魂よ、おまえに形を与えているのは自然であることを忘れるな。そして形ある限り、おまえは自然の一部であることを忘れるな。その内に無限の智恵を秘めて、 なお我らの一部であることを。人は自然から切り離されたことなどない。そんなことは不可能なのだ、たとえどれほどあがこうとも!

  何かに絶望する前に自らの手を見よ、足を、鏡の向こうにのぞく二つの瞳を。この生命の精妙さ、形に込められた自然の法則を。このような体に形とらせ、完璧 なリズムをもって心臓をうたせ、呼吸させるためには、どれだけの偶然が法則の網目通して濾されなければならなかったか、知っているか。

  そして季節の巡りに精密に対応するリズムをもって、この体が、また魂が、自らが自然の一部であることを認め、よろこびにうちあふれるのを、今、意識を通し て認めよ。体は忘れたことはない、魂は忘れたことはない。ただ人としての小さな自我のみが、自らを自然から独立のものと誤って考える。

  ああ、人よ、一つところに留まるな。自然が教えることのできる最大の智恵はそれだ。一つ形に留まるな。限りなく変態を重ねる無限の生命らしく、眠り、目覚 め、新たな形のうちに翼を広げよ、手足を伸ばせ。変化が滞った時にのみ死は訪れる。そうして死は一つのメッセージに過ぎない、「次なる変化、新たなる段階 が待っている」との。

(1996年)

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