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July 23, 2009

卒業、任職

 この7月、9年間在籍した神学修士課程を卒業し、カリフォルニアでの聖職按手式を経て、公式の聖職者(アメリカ合衆国法で正規に認められる牧師/司祭)として任職した。

 在籍の6年目に師匠からありがたくも「卒業準備」のお達しを受けたものの、それから納得のいく卒業プロジェクトのテーマを探して結局2年間うろうろ。ようやく落ち着けるテーマを選び、アウトラインを作成提出して許可を受け、9か月かけて資料を集め、仕事の合間をぬって書き進めた。

 しかしヒーリングや教える仕事と平行して執筆を進めながらいろいろ思ううち、どうしてもテーマを変更したくなった。というわけで、それまでのアカデミックなアプローチのプロジェクトをえいと放りだし、コミュニティ奉仕の枠組みでまったく新しいアウトラインを再提出。その後3か月間、毎日机の前に座って無我夢中で書き上げるという怒濤の執筆過程(笑)。

 しかし論文提出は単なるハードルの1つ。卒業生や長くいる学生たちの間では、提出後、少なくとも半年から1年はお沙汰がないのが通常コースと知られている。

 「どうやって入ったらいいか誰も知らないし、どうやって出たらいいのかも誰もわからない」と冗談のようで冗談でなく語られるHLCCの神学課程では、履修単位の満了や卒論の提出は「卒業」の保証ではない。だからいっそ大部分の人は、自分から卒業について問い合わせるなどという大それたことはせず、こつこつと研修を続けながら、お声がかかるのを静かに待つ。

 私の場合、幸運にもまず師匠からのお達しがあり、さらに2年後、アウトラインも出さずにうろうろしているところを「私があなたを卒業させるつもりなのは知っているでしょ!」と尻をたたかれていたので、卒業させてもらえること自体については心配しなくてよかった。問題は日取りが決められるかどうか(笑)。

 12年の研修を経て2年半前に任職したシンシナティの友人に訊いてみたが、彼女の場合、論文提出から日取りが決まるまでに4か月で、実際に卒業したのは8か月後だ(これでも超スピーディな経過)。

 そこから推せば今年の後半、もしかしたら来年になるかと思ったが、しかし私自身のガイダンスは「任職は7月、カリフォルニアだ」ときっぱり。

 普段から「返事をする準備ができてないのに返事を要求されるのが大嫌い!」と公言する師匠のこと、うるさく問い合わせをしてはいけないのだが、ガイダンスを無視することもできず、論文を提出してから3週間目にメールでお伺いを立ててみた。驚くべきことに翌朝、返信が...「この7月、カリフォルニアで」。

 おお...っていうか、師匠、日取りまでに1か月切ってます(笑)。

 予約だけ入れてあった飛行機のチケットをあわてて購入完了し、ホテルなどを手配。ボルネオからアメリカは、行きつくだけで2日かかる。今回は台北・東京経由の1泊2日がかりだ。

 式の参列は研修の参加者(ほとんどが7、8年来の顔見知り)と、付き添いにはうちの連れとサンディエゴ在住の旧友。

 当日、駆けつけた友人と夕食をともにしながら、「卒業するのは何人?」と訊かれた。...もうずっと、2、3年に1人のペースでしか卒業生は出ていない。そして今年も1人。「忘れた頃に卒業生が出る」と師匠は言われた。

 ロザリン・ブリエール師の神学課程は「Crucible(溶鉱炉)」と呼ばれる。それはアルケミーの溶鉱炉であり、変容と蒸留の器(うつわ)だ。「卒業」に到るための道しるべもないし、どうやって進むかの手引きすらない。形式としての卒業条件も最低限の足場でしかない。

 ただ聖職者への道のりという溶鉱炉の炎に熱せられながら、空の光を見失わず、それに呼応する自分の中の光を頼りに、ひたすら目に見えない世界への信頼と、自己の意志で歩を進めるのみ。そうやって歩き続けることができなければ、暗闇の中でも人を導いていくのはかなわないということなのだろう。

                 ☆

 研修期間をかけて準備されたエネルギーの器の中、式前夜のお祝いとメッセージを兼ねたトランス・セッションから始まり、そして当日の聖職按手と任職式。それは前もっての予期や想像をまったく超える恵みだった。

 按手礼は、使徒の時代から途切れることなく行われてきた、一人の経験深い聖職者から新しい任職者へと、それまで受け継がれてきた権能やエネルギーを手づから受け渡す過程だ。

 教会の聖職者であるだけでなく、チベットのボン教の巫女であり、また北米先住部族のメディスン・ウーマンとして、驚くほどの量の「知恵」の流れを一身に受け継いできたブリエール師の手から、私の頭、そして全身へと直接、伝え渡されたエネルギーの量と内容は膨大なもので、「身に余る」というのはまさにこういうことだと思った。

 与えられたすべてを自分の中に統合し終わるまでには、いったいどれだけかかるだろうと思いつつ、自分に伝えられ任されたものを受け継ぎ、また受け渡していくために、残りの人生をかけて応えていく決意を新たにした。

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