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January 06, 2012

フラワーエッセンス・ヒーリングの方法論(Dictation)

 2010年4月に「ヒーラー&アルケミスト」に全文を公開したDictationのうち、ブログでは前半のみを公開していましたが、後半3分の2を加えて全文として公開します。




フラワーエッセンス・ヒーリングの方法論(Dictation)


 フラワーレメディの本質は、小宇宙である人間と、大宇宙である神の間を、自然によって仲介する方法ということだ。

 もちろん、このような仲介のためには他にもたくさんの通り道があるのだが、フラワーレメディにおいては、それを「花」を通して行うという点に特色がある。

 最終的にすべての精神的道程がそうであるように、フラワーレメディもまた、小宇宙である人間が、大宇宙である神に向けて道のりを歩む存在であることを前提とする。

 レメディは、その過程において遭遇される障害を乗り越える手助けとして、そこに置かれてある。それは大宇宙=自然である神の配慮であり、恵みである。

 この大きなヴィジョンが心に留められてある限り、フラワーレメディはその全体性を保つことができる。

 この時代において、フラワーレメディの実践は心理学や心理療法の知識によって助けられる部分が多くある。

 だがそれでも、フラワーレメディは心理療法ではない。

 だから、フラワーレメディと心理療法の類似性に助けを見い出すのはよいとしても、その枠組みに多くを頼りすぎるようになると、フラワーレメディあるいはレメディにより仲介されるヒーリングの本質が見失われることになる。

 現代において心理療法の方法論が助けになるのは、一つには、人々が神聖なものの存在を前提とすることができない社会において、魂の癒しに必要な小空間を保持する方法を提示することにある。

 複雑な神経症によって固定された現代人の心をほどくのに、小さく安全な空間で集中的に作業をしなければならない場合があり、そのような場合には心理療法そのもの、または心理療法的なアプローチが適している。

 だが、フラワーレメディの本質はなお、母なる自然に支えられる経験を通して、自分がその一部であるところの宇宙=神そのものへの信頼を回復することにある。

 別の言い方をしよう。

 心理療法は1+1=2。

 フラワーヒーリングは1+1+1=3。

 1=プラクティショナー、1=クライアント、1=花=自然=神。つまり自然=神が人間と同等の支点として器の形成に加わる。

 心理療法のプロセスが難しく時に不安定なものになるのは、その器が2つの支点のみにより形成されるからだ。それは母親と子供の関係に類型する、きわめて親密な空間を形成する。

 このような空間の形成は、心理分析や心理療法の集中的な作業の一部であり、必要なものだが、それを保持するのに療法家は大きな心的エネルギーを必要とする。

 フラワーレメディ(フラワーヒーリング)においては、自然=神が対等のヒーリングプロセスの支点として器の形成に加わることで、器は本質的に安定なものになる。これがフラワーヒーリングが心理療法と異なる点でもある。

 フラワーレメディとそれにより仲介されるヒーリングは、神としての自然、そして秩序に満ちた宇宙を肯定する。この点においては、それは精神的道程、古典的な意味での宗教(Religion)ともつながるものだ。

 Religionとは本来、re-ligio、「再びつながりをもつ」という意味だからだ。神聖なものとのつながりを見失った人間に、その方向を指し示すのが本来のReligionである。

 多くの人の内に生の神聖さの感覚、そして秩序あり知性ある宇宙とのつながりという土台が確立されるなら、現代人の神経症の多くはごく自然に解消される。

 悩みはあっても普通に生きている大部分の人間にとって必要なのは、むしろこの土台、自然=生命の神聖さを感じる力を目覚めさせることであり、それを日常生活の中で持続させることだ。

 土台が安定し、ある程度の障害が取り除かれれば、各自の魂は自然に自分自身の形を表現する方に向いていく。それが魂の本質(エセンティア)だからだ。

 魂は自分が誰であるかを知っている。


 心理療法的な取り組みのできるフラワーレメディの療法家があることは貴重だ。現代の社会と心の枠組みにおいては、深いトラウマからの回復や、複雑な精神病理に苦しむクライアントには、心理療法を範とするアプローチが適している。

 それは他の方法では癒しのきっかけをもたらすことのできない魂にも、助けを差し伸べることを可能にする。

 だが、フラワーレメディを心理療法的な形で用いるのは、多大な心身の集中を必要とする作業であり、その意味において、それを実践するのは、道に献身する者である。

 その仕事は聖所における神官、また病気治療における医者の仕事に等しい。であるからそれは規律を必要とし、訓練を必要とし、倫理を必要とする。

 しかしそれはフラワーレメディを用いるすべての者が、聖所の神官、魂の医者でなければならないことを意味しない。小さな切り傷や火傷、軽い感冒をすべて医者が手当てする必要はない。本来、肉体には癒える力があり、魂には柔軟性と弾力性があるからだ。

 野に自由に咲き、すべての人の手に届く花がレメディのベースにされたのには、理由がある。そしてレメディが、子供にも可能な簡素な手順で準備されるよう手配されたことにも、理由があるのだ。

 現実として、神官や魂の医者として務めることのできる素養と献身力をもつ者の数は多くはない。レメディの使用をそれらの者のみに限るなら、レメディはきわめて限られた数の人間にしか用いることができなくなる。

 それは意図されたところではない。


 フラワーレメディのもっとも重要な役割は、人と自然のつながりを深め、人の内に、自然=生命の神聖さを感じる力を回復し、秩序あり知性ある宇宙への信頼という土台を築き直すことだ。

 人が神聖なものとのつながりを経験するために用いられるなら、誰に、どのような使い方をされようとも、レメディはその役割を果たす。

 フラワーヒーリングの純粋さを保持しようとする者は、レメディが誤用されるのを憂うる代わりに、誤用と見えるその行為を通して魂は何を得ようとしているのか、魂の本来の意図は何であるかを見通す力を身に付けよ。

 最初から自他を傷つけようと意図して行為を行う人間はきわめて少ない。(そして確信的な悪意から行為する例外者は、一般論に含めることはできない。)

 大部分の人間は、よかれと思い行為をなす。結果、自他を傷つけたとすれば、それは無知ゆえの無思慮、短慮による。ならば罪は無知にあり、無知の闇に光を投げかけるのが献身者の役割である。

 もちろん、自分自身の無知や短慮に気付かず、人を傷つける行為を繰り返す者には、警鐘を鳴らさねばならないこともあろう。だが多くの場合、人生はすでに、魂が過ちから学ぶことのできる次のレッスンを用意している。

 思いおこすがいい。

 最大限に花の力を引き出すためには、使い手が花の中に神聖な力を、その本質を見ることが必要だ。優れた使い手の手になれば、もっとも平凡な野の花、路傍の小さな花が、もっとも神聖な自己への入り口になり得る。

 それは特定の花に特別なパワーがあるのではなく、使い手がその花の本質を見ることで、その力を最大限に引き出すのだ。

 同じことは、レメディを必要とする人間にも当てはまる。フラワーヒーリングの伝統を守ろうとする者は、人の中に、善=他者とともに生きようと望む生命の本質(エセンティア)を見る力を身に付けよ。

 そしてその本来の性質がどのように表現を遮られ、まっすぐに形をとることができないでいるかを洞察、分析することを学べ。それによって、どのようにその通り道から障碍を取り除くかが見えてくる。

 一部の魂にあっては、表現は複雑に曲がりくねり、それを解いていくには非常な集中と時間、魂の癒しへの献身を必要とする。これが療法家の仕事である。

 だが、どれほど曲がりくねろうと、その先、奥の奥には本質が待っている。魂が魂である限り、最終的に行き着くのはその魂の光であるという希望があるのだ。


 フラワーレメディという癒しの道筋において、野に自由に咲き、すべての人の手に届く花を用いることが選ばれたのには、理由がある。

 一つは「花」の特別さであり、もう一つは「花」の普遍性である。

 特別さとは、花とは、植物において、異なるエネルギーの領域、異なる要素が触れ合い重なる特別な接点ないし空間であること。

 人のハートが、肉体と魂の領域の接点であるという意味で特別なものとすれば、同じ意味で花は植物のハート、物質と魂の領域の接点である。

 母なる自然はその緑の衣を大地の隅々にまで広げ、花を開かせる。地上に自然の手の及ばぬ場所はなく、人の住む場所で花の咲かぬ土地はない。

 花は母なる自然から、すべての生命への贈り物である。フラワーレメディに惹かれる人間で、このことに異を唱える者はいないだろう。

 誰もが花の美しさに惹かれ、うたれ、心癒された経験をしている。花はそこに在って、それを目にする人のハートに自由に触れる。この触れ合いが起きるのを妨げることはできない。

 誰も花を所有することはできない。

 たとえそれが個人の庭に咲くものであっても、花は個人の所有ではない。なぜなら人には、「花を咲かせる」ことはできないからだ。人は種を蒔くことはできても、種に芽を出させることはできない。つぼみをつけさせることも、それを開かせることもできない。

 いくら条件を操っても、母なる自然と植物が同意しなければ、花も咲かなければ実も生らない。開いた花が散るのを止めることも、その美しさを無理やりとどめさせることもできない。花は自らのリズムで開き、一時の間、匂やかに輝いて、散りあるいは枯れる。

 「日照条件や温度を変えれば」「肥料や水を調整すれば」自然を操ることが可能だと考えるのは、人を自然の上に置く愚かさである。

 誰も自然を所有することなどできないように、花を所有することはできない。

 人の魂を他の人間が所有することはできないのと同じように、特定の個人が花の本質を、その生命力を、所有することはできない。

 花から作られた製品を「所有して」それを売ることはできよう。

 だが、かの英国人医師は「製品に私の名を冠して正当性を主張せよ。他の誰にもまねをさせるな。私が作った場所以外で作られたレメディは劣性品である」などと、一度でも言ったことはない。

 彼は「フラワーレメディは誰にでも作れる。自分の使う分は自分で作るがいい。そのやり方はこうだ」と教えた。知己の薬局に依頼してレメディを販売させたのは、忙しい同僚の医師たちの手間を省く試みに過ぎない。

 花とレメディは神である自然に属し、人の手に属するのではないことを知り尽くしていたからだ。

 フラワーレメディは、自然から、もっともシンプルで直接的な形で作られる。それはつねにそれを使う人々に、自分は自然からの贈り物を受けとっているのだということを思い出させるためだ。

 薬剤を用いながら「これは自然からの贈り物だ」と思う人は少ないだろう。抗がん剤も含め薬剤の多くは、今なお自然の中から抽出され、加工されるにも関わらず。

 同じことは、肉体に手を当てるヒーリングにも言える。ヒーラーの手から流されるエネルギーの周波数を分析して、機械で流すことができれば同じ効果が得られるのか? 答えは否だ。

 おかれるのが「人の手」であることが重要なのだ。手を通して、人の魂、人の生命力同士が触れあうことが、ハンズオン・ヒーリングの本質だからだ。

 フラワーレメディは限りなく自然に近く、魂に直接的に響く。

 そのレメディを「製品」として加工し売買しようとするのは、現代人の行いである。一方にものぐさな者があり、他方に商いにさとい者がある。

 だがフラワーレメディは本来、使う者が自然から直接受けとることを意図してもたらされたヒーリングの方法なのだ。

 正しく教えられ、実践されれば、レメディを作る過程自体が一つの祈りであり、自然と一体となる神聖な経験となり得るからだ。

 それは現代人に欠け、何より必要とされているものである。

 ならば、一部の人間が金儲けのためにレメディを乱用することを恐れるよりも、より多くの人間に、レメディを作る過程を通して自然と正しく関係を結ぶことを教えるべきだ。

 いつの時代も、何をどうしようと知識を盗用し乱用する者はいるし、それは防ぐことはできない。薄められ誇張された知識が、より広まりやすいというのも人の世の習わしだ。

 それはアルケミーの伝統そのものを見てもわかるだろう。もっとも神聖な知識についてさえそうなのだ。

 だが、乱用を恐れて遮れば、流れは途絶える。知識と伝統を保存するためには、それを絶対数として、正しく受け継げる者の手に届けることを考えるのだ。無駄になる部分を恐れるな。

 自然は、種子が日照りにあったり鳥に食われるのを恐れて実をならせるのをためらったりはしない。百の種子からたった一つの花が咲くなら、その百倍、千倍の種子を実らせる。


 もっとも重要なフラワーレメディは、もっともありふれた植物から作られる。

 繁茂する植物の変化を見れば、何がその社会、地域、時代で重要なテーマなのかがわかる。

 希少な花が必要になるのは、扱う問題が特殊な場合だ。あるいは病理の深い社会で共有される根深い問題をとり扱うのに、パワフルなレメディが必要な場合もあるだろう。

 また魂が成熟し、人間としての基本的な悩みや葛藤を解決した段階にあって、より高い創造性への触媒として、特別なレメディが求められる場合もある。

 だが、この時代、大部分の人間に必要なのは、生への信頼の回復に導いてくれる基本的なレメディなのだ。そしてそれは必ず、それぞれの土地に見つかる。

 だから必要なのは、希少な花を求めるよりも、身の回りの花から学び、その性質を見分け、活用することだ。

 考えてもみよ。人の肉体を癒す薬草が必ずその土地で見つかるのに、なぜ魂の癒しに必要な花が見つからぬわけがあるか。

 人が必要とするレメディは、その人が生活する土地で必ず見つかる。

 思い込みを捨てて、花と魂の関係にもう一度目を開け。

 むしろ必要なのは、求める性質をもった花に触れた時に、それを感じることのできる本能的な感覚を研ぎ澄ますことだ。

 かの英国人医師は、魂の力をもって自らの内にさまざまな精神的葛藤を作り出し、それを手がかりとして必要なレメディを探した。特定の精神的葛藤を癒す触媒としてのレメディを、自らの心身を道具に、共振的感覚を通して探し当てたのだ。

 古代においては、自分が必要とする薬草や自然の要素を探し当てる能力は当たり前のもの、普通の本能的機能の一部だった。

 病気になった野生動物が必要な草や土を探して食べるのと同じように、人間もまた、体と心の状態に応じて、バランスを取り戻すのに必要な植物や自然の要素を探し当てることができた。

 時代が過ぎて、人の心の機能が自然との合一から切り離されていき、この能力を開いた状態に保つ者は少なくなった。それはやがて遺伝や才能と特別な訓練を通して目覚めさせ保持しなければならない、特殊な能力になった。

 それを伝統の助けを借りて保存しているのが、シャーマンや祈祷師(メディスンマン)である。西欧型社会においては、この伝統はほとんど失われている。

 なされなければならないのは、このようなかつては当たり前だった機能を退化するに任せるのではなく、教育を通して安定させ、再活性させることだ。

 人々がいつまでも麻痺したままでいることを前提に療法の枠組みを作るのでなく、新しくよりよい在り方のヴィジョンを基(もとい)に、それに向かうための枠組みを描き、足場を築くのだ。

 そしてこの移行期、それは必然的に動的なものであって、一度築けばその上に安穏とできるようなものではない。


 灯台を守るものは日々、そのレンズと鏡面を磨き、神官は日々、神の声に耳を傾け、医者は日々、患者の肉体に耳を傾ける。それを怠ればレンズや鏡は曇り、神の声は遠ざかり、肉体の精妙なバランスや流れを感じとる能力は鈍る。

 献身者とはこのことを理解し、自らの人生を望んでそのような道に捧げる者である。

 そして花の神殿に献身を捧げる者は、記憶にとめおくがよい。

 汝らの魂は、汝らがその神聖さを認める花の香りにて印(しるし)されてある。目に見えぬ助力者はそれを頼りに汝らを見つけ、つねにその助力、守護と導きを与えようと身辺にある。

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