激しく移り変わる世界の中で、フラワーレメディの原点について考える
先号まではエドワード・バック(Bach、バッチ)の『The Twelve Healers & Other Remedies』 の翻訳を通して、近代のフラワーエッセンスやレメディの原点であるバック医師の視点、考え、方法論に触れてもらいました。
バックの著作は現在、版権が切れて公共のものとなっているので、追々他の著作や講義録なども訳出していきたいと思っています。
バックの受けとっていたレメディの本質についてのヴィジョンを理解するためには、後人の解釈ではない、バック本人の言葉と思想に触れることが欠かせないと思うからです。
☆
これまで、豊かできれいな日本の自然を当たり前のように受けとってきた私たちは、事故から発した放射能汚染の影響によって、日常生活だけでなく、自然との関係についても、改めて深く考えることを求められています。
普段から自然を観察してきた人、環境について色々なデータを集めてきた人、そして環境と自分自身の肉体・エネルギーとの関係に注意を払ってきた人は、どの地域にいても、放射能の影響に気づいています。
昨年の5月と6月、ハンズオン・ヒーリングを行うため、ヒーラーのチームとともに福島に出かけました。その時にもすでに、タンポポの茎がひょろひょろと異様に伸びて(25センチから35センチ以上も)、自分で自分を支え切れずに地面に倒れているような現象を多く目にしました。
去年に入ってから、植物の花や葉の数、またそれ以外の形状の異常が東北から関東でますます多く報告されるようになってきています(ネット上にもたくさんの写真が出ています)。
植物の突然変異自体は自然に時々見られるものですが、その頻度や変異の度合いが目に見えて増しているということです。
大気や水への放射性物質の放出が止まっていない以上、こういった現象は増えていくと考えられますし(チェルノブイリの例を見ても)、日本だけでなく、ハワイやアメリカ西海岸など、放射性降下物が風や海に乗って運ばれていく先の土地でも、報告が増えるでしょう。
一度放出された放射性物質は環境からなくすことはできません。放射性物質をそれ以外のものに変える技術を人間はもっていないからです。可能なのは、できるだけ害を為さない、生命を傷めない場所に集めて、隔離することだけです。除染というのは要するに、放射性物質を害を及ぼしにくい場所に移動させる作業です。
その後、人間にできるのは時間が経つのを待つことだけで、セシウム137やストロンチウム90などは、30年経ってやっと環境中の量が半分に減ります。
こういった現実を目の前に、日本の花からフラワーエッセンスを作り続けることはできるのか? 放射性物質はほこりのように植物の上に降り、雨に混じって土壌に染み込み、植物の根から吸収されます。花を摘んで水につければ、ごく微量でしょうが水に混じります。
赤ちゃんや成長期の子供は別として、大人の場合には、ごく微量の放射性物質自体をパニックになって恐れる必要 はありませんが、農薬や化学肥料を用いた花からエッセンスを作ることはない。それと同じです。
「清浄な環境で摘んだ花を」とバックは言いました。フラワーエッセンスは、花の「本質(エセンティア)」を水という媒体を通して物質レベルに落とすもので、そのためには、きれいな自然環境の中で、健康で生命力に溢れ咲いている花を使うことが望ましいからです。
私自身がこれまで作ったエッセンスは、すべて中部地方以西の山々が中心で、関東や東北で作ったものはもともとありません。しかしこれからフラワーエッセンスを作る人たちには、花を摘むための環境について、どう教えたらいいのか? 東北や関東の人たちは、自分の住む地域で花を摘んでエッセンスを作ることはもうできないのか?
「別に、海外から輸入したものを買えばいい(前からそうなんだし)」という人もいるでしょう。でも私にとってはそれは違うのです。ビン詰めのエッセンスは入門用にはよいし、多数のエッセンスを使いこなして仕事をする必要のある療法家にとっても便利なものですが、 それはフラワーレメディの本来の在り方ではないのです。
先回の号を出してから長い間が空いてしまったのは、人間が引き起こした自然環境の汚染について考えながら、フラワーレメディの分野で自分がするべきことについて、思いを巡らせていたからでした。
自分の向かいたい場所については、ある程度は3月に高野山で行ったフラワーメディスンの集中研修で話しました。その核となる部分は「フラワーエッセンス・ヒーリングの方法論」という一文に凝縮されています。
フラワーエッセンス療法とプラクティショナーの必要性
療法分野におけるフラワーエッセンスの重要性は変わっていませんし、大震災以降、さまざまなストレスから体と心のバランスを乱す人たちが増え、フラワーエッセンス療法を実践することのできる専門家(プラクティショナー)の必要性は、むしろ高まっています。
震災後に多数のボランティアが現地に向かいました。その中で、複数の団体によって善意で行われた素人療法の アートセラピーが、被災した子供たちのトラウマをむしろ悪化させるとアートセラピーの専門家によって指摘されるということもありました。
こういった事例を見ても、心理や心的トラウマについての理解、臨床経験と倫理を身に付けた上でフラワーエッセンスを用いることのできる療法家の必要性を、強く感じます。
カウンセリングやセラピーを超えて:植物たちとの神聖な関係をもつ必要性
他方、フラワーレメディを本来の全体的な形で今の日本に普及していくには、幾つかのチャレンジがあります。
その一つは、「宗教と関係しているような印象を与るべきでない」。日本や共産国以外の世界では、信仰をもつことは道徳的な人間の基本的条件と考えられています。しかし今の日本では、社会の中でもとくに医療や心理の専門家を含む知的で常識的な層に、「宗教っぽいもの」や「信仰」へのアレルギーがあります。
教会で結婚式を挙げたり、神社にお参りに行くことには抵抗がないのに、実際に何かの「信仰」をもっていると思われるのは、とくに知的層にはタブーなのです。
この点を意識して、フラワーエッセンスを「商品+使い方のマニュアル」という形で普及しているところでは、レメディであったものは、「滅菌された」(精神的価値観やエネルギー的理解を抜き去った)形で提供されています。
しかし、フラワーレメディの本質に近づいて行こうとすると、必然的に「魂」や「神」という概念にも触れます。バック本人は「神」という語を普通に用い、フラワーレメディの土台は信仰(Faith)であるという言い方もしています。
世間の誤解を恐れてこの部分を切り離してしまうと、フラワーレメディは単なる「花をひたした水のビン詰め」になってしまうのです。祈りからFaithを取り除くと、それは単なるアファメーションになってしまうのと同じです。ツールとしての役割は果たせるかもしれませんが、本当の「力」はそこにありません。
そして現代人の不安と苦しみの最大の原因が自己の魂と自然の魂の間のコミュニケーションの喪失、神聖なものとの乖離である以上、この部分に触れずには、レメディの本来の役割を語ることはできないのです。
正しく教えられ、行われれば、フラワーエッセンスを作る行為はそれ自体が祈りであり、神聖なものに触れる経験です。バックが基本的にエッセンスは自分で作るものと考え、そう教えたのも、この事実あってこそです。
もちろん、「エッセンスが欲しい」というだけの自己中心的な態度で、花をむしって水に浸けるようなやり方では駄目です。
しかし行為の象徴的な意味を教えられ、理解し、自然への畏敬と愛情を込めて作業をすれば、子供でも、その核になる「神聖さ」の経験をすることができます。
それを伝えるためには、フラワーレメディは(エッセンスの生成も、それを用いての癒しも)自分と神聖なものと の関係から生まれることを経験し、自分の中に根付かせなければなりません。そうして初めて、言葉での記述や効能書きの説明を超えて、レメディについて伝えることができるからです。
『花の魔術 フラワーエッセンス入門』2012年6月10日号(Vol.26)
「06. フラワーエッセンス フラワーレメディ フラワーメディスン」カテゴリの記事
- 感染症の流行とフラワーエッセンス(2020.12.17)
- エドワード・バック(バッチ)「癒しをもたらす12の植物とその他のレメディ」(全文訳)(2020.04.21)
- フラワーエッセンスとエネルギーの感覚(2018.06.16)
- フラワーエッセンス 自分に合うメーカーを選ぶには(2017.12.26)