« フラワーレメディを「当たり前のもの」に | Main | 環境の選択 »

June 15, 2013

第6チャクラ 「光を見る力」(続き)

 このメールマガジンで最後にチャクラの話をしたのはいつだったかなと思ったら、「エネルギーのケア 放射線によるダメージの理解」を書いたのが1年前で、「第6チャクラ 光を見る力」は1年半前、2011年12月だった。

 2011年という年は、自分の人生にずっと刻まれた標になるだろう。

 それまでの生き方や価値観が変わったわけではないが、現実面で対処したり考慮に入れなければならないことが一気に増えて、やろうと思っていたことの優先順位の徹底した整理が必要になった。いくつかのことについては手放し、あるいはやり方を変更せざるを得なかった。

 ヒーリングとフラワーレメディを智恵の伝統として保ち、人々の体と心に向かい合っていくことに変わりはない。だが、環境汚染や自己管理の不足からくる健康の問題や、現代人の中毒傾向からくる心身の悩みといったものに加え、広がる放射能汚染という、追加で対処していかなければならない課題が発生し た。

 広がる放射能汚染という現実は、多くの人の内的な亀裂----それまでは何となく隠しておけた、頭での理解と実際の行動の乖離----を表面化させたように思う。

 原発事故後の日本で生きるということと、第6チャクラの役割についてはいろいろ思うことがある。

 人間にとっての普遍的な「希望」というものがある。それは「自分は人間として幸せに、充実して生きることができる。自分の人生には意味がある」という内的な感覚のことで、それは人を内側から照す光だ。

 (「お金持ちになりたい」とか「楽に暮らしたい」とかいうのは単なる「目標」であって、「希望」ではない。それがどんなものであっても、物質的な目標自体は幸せを保証してくれるものではない。)

 現代人の多くは中毒的行動にはまっているが、それはこの本当の希望(内的な光)が見えない状態で生きるのが当たり前になってしまった社会で、その不安やつらさを紛らわせるための自己マヒ行動だ。

 どこかがおかしいと感じながら、それについて何もしないことを選ぶ時、人の中には認知的不協和音と呼ばれるものが生まれる。不協和音を止める唯一の方法は、現実を認め、それに対して正直な、あるいは現実的で意味のある行動をとることだ。

 行動をとらないことを選んだ場合、人によっては無意識の葛藤から来る神経症(ノイローゼ)的状態が生まれる。

 行動をとらず、かつ内的な不協和音から逃れようとして、自分の感覚や感情(つまり生命エネルギーの流れやオーラフィールド全体)を抑圧すれば、エネルギーの鬱的状態になる。

 中毒的な行動で自分をマヒさせる人も多い。これにはアルコール依存、アドレナリン・ラッシュを引き起こすようなギャンブルやオンラインゲーム、感情のドラマを伴う人間関係や恋愛への中毒など、色々なパターンがある。共通しているのは、生命エネルギーを散らして無駄に消費し、「おかしい」と感じる能力自体を鈍らせることだ。

 これらはいずれも不自然なエネルギーの消耗や低下を招き、慢性化すれば、心身のさまざまな不調や免疫力の低下、病的症状につながる。

 

内的に見る、外的に見る

 第6チャクラの役割は、内的にも外的にも「見る」ことだと書いた(「第6チャクラ 光を見る力」)。

 外的というのは実際に目で見ること。内的というのは、例えばヴィジョン、希望や夢のように、形はないが実体のある経験として「見る」こと。

 肉体の通常の可視範囲を超えたエネルギーの領域で「見る」ことは、外的世界と内的世界をつなぐ形で「見る」ことになる。

 第6チャクラでは、外的な(生物学的な)機能と、内的な(象徴的な)機能がつながり重なる。これは第6チャクラの適正な色が、ロザリン・ブリエール師が指摘するように、紫色(第1チャクラの赤と第5チャクラの青が重なった色)ということを考えても面白い。

 

第6チャクラと松果体、第3の目

 昔から第6チャクラは松果体と結びついていると言われ、松果体の重要性は古代エジプトでも知られていた。古代エジプト人は松果体の中に砂のような結晶があることも知っていて、それを「ナイルの沈泥」と呼んでいた。これは現代医学では脳砂と呼ばれる。

 松果体は光と密接に結びついた内分泌器官で、発生学的にもトカゲなどの頭頂眼と同じ起源と認められている。

 ムカシトカゲは頭のてっぺんに頭頂眼と呼ばれる3つめの眼がある。これは視床上部の上生体複合体由来で、遠い過去に眼であったものの名残りと言われている。この頭頂眼は実際の眼とよく似た構造をしていて、水晶体、網膜、脳に繋がる神経まであるが、生後4から6か月経つと色素のある不透明な鱗で覆われてしまう。(ウィキペディア「ムカシトカゲ」)

 現在のところ、哺乳類の松果体には外からの光を直接感じる機能は確認されていない。光センサにあたる光受容タンパクは、ヒトでは網膜でのみ確認されている。なので、人間では、目から入った光が網膜で検出され、その刺激に応じて松果体がメラトニン(概日リズムを調節するホルモン)を分泌するという理解になっている。

 しかし哺乳類以外の脊椎動物(鳥類・爬虫類・両生類・魚類)では、松果体は光センサとしても働くことがわかっている。例えば、かつては植物の光受容体とされていたクリプトクロムという青色光受容タンパクが、ヨーロッパコマドリなどの鳥の松果体で見つかっている。ニワトリの松果体からはロドプシン(視紅)と似た光受容タンパクが日本の研究者により発見され、ピノプシンと命名されている。

 さらに最近のウィスコンシン大学医学部の研究で、サルの松果体と網膜の両方でDMT(ジメチルトリプタミン)合成酵素の存在と、対応する遺伝子の活動が確認されたりもしている。こんなふうに松果体と網膜の間には非常に密接な関係があり、やがてヒトの松果体でも光受容タンパクが発見される可能性は高いと思う。

 (DMTは光受容体ではないが、臨死体験やヴィジョンを伴う特殊でダイナミックな変容・至高体験に深く関係していると考えられている。DMTについても書きたいことはいろいろあるが、また。)

 

内的な光によって、自分のまわりの世界が照される

 私の考えでは、現代人(とくに欧米人と欧米・物質主義化した日本人)は、「第3の目」(第6チャクラ+松果体)の機能が、古代の人間に比べて退化していると思う。かつては比較的普通だった、物質を超えた世界を見たり、エネルギーの領域とやりとりする能力が極限にまで落ちていると思うのだ。

 (だから「目に見え、手で触れないものは存在しない」主義の人々や学者は、昔の人が日常的に経験したそういう領域との交流を、まとめて「神話や伝説、おとぎ話(fairly-tale)、未開の人間の迷信、ないしは幻覚・妄想」として片づけようとする。)

 人が「目に見えない(物質レベルを超えた)世界」と交流する力を失った原因は、文明の極端な物質主義化以外にもいろいろ考えられる。ジュリアン・ ジェインズやコリン・ウィルソンの言う右脳と左脳の二分化も重要と思われるし、自分が今とくに興味をもっているのは松果体の石灰化について(これもやたら長くなるので、別トピックとしてまとめてそのうちどこかに書く)。

 だが現在でも、遺伝や生い立ちのおかげで、「目に見えない世界」を見る能力がある程度残っている人がいる。生命に関わるような事故に遭ったり、臨死体験をして能力が目覚めたり、あるいは長期の修業や訓練で目覚めさせた人などもいる。

 そいう能力を、人々は羨ましいと感じる。私に言わせれば、そういった能力を羨ましがるのは、「本来自分にもその力があるはずだ」という内的な感覚ないし無意識の記憶と関係している。

 現代人の可視・知覚範囲を超えたエネルギーを見る能力によって描かれる世界は、人々を惹きつける。その記述から垣間見えるエネルギーの世界は光に満ちていて、物質世界の刹那的視点を超えた意味があるように思えるからだ。それは心惹かれると同時にどこか懐かしくもあり、「自分はそれを知っている」と感じさせる。

 人は「光」に惹かれるようにできている。人の内には内的な光があり、それはつねに外にある光を探している。第6チャクラはその光を見る器官なのだ。

 自分の内に光があるのを思い出せない時、人の人生は暗く心もとない(本人は暗いとさえ認識していないかもしれない----電灯がついて初めて、これまで部屋が暗かったんだと気づくように)。自分の中に光があることを思い出せず感じられない時、人は外の光の存在も忘れ、宇宙には秩序などなく、限られた自分の人生の中で、目に見え手に触れるものだけがすべてであると決めて、短い時間の視点からしか振る舞わない。

 こういった状態にある人では、第6チャクラは小さくしぼんで力がない。オーラフィールドの高い周波数帯域に光がなく、色が冴えず、時にはしおれているように見え、時には暗く沈んでいることもある。

 そういった人の第6チャクラが何かのきっかけや経験で賦活され、光で満たされると、しばしの間、「世界が別のものに見える」経験をする。きっかけは、壮大で美しい自然の風景を見たり、歴史を通じて保たれてきた聖所など神聖な空間に足を踏み入れるといったことでも十分だ。

 ヒーリングでも第6チャクラを光で満たすと、ほとんどの人が目を閉じているのに「眩しい」「光が降っている」と感じる。そしてセッションが終って目を開けると、「世界が明るく、鮮やかに見える」経験をする。

 第6チャクラがよく機能している時、人はいともたやすく「光」について思い出す。それが「見える」からだ。自分の目(第6チャクラ/松果体)で光を見ることができれば、すべてのものが内側から変わる。

 そしてそれは、オーラフィールドを直接見ることである必要すらない。目で見ようと、内的なヴィジョンとして見ようと、第6チャクラを通して見れば、世界は生命=まばゆくゆらめき輝く無数の光から成り立っている。また第7チャクラを通して見れば/感じれば、世界は、すべての要素が緊密につながる、光で編まれた一枚の光の織物だ。

 それは、人間としての形と寿命を超えた、大きな世界、意味を感じさせ、思い出させる。

 現代人の神経症、中毒・依存症、鬱的状態、逃避行動などは、自分が生きることの意味を感じられないことからきている。逆に言えば、生きることの意味を感じることができれば、そして生きる意味は今の自分の状況に左右されないということが経験されれば、中毒や依存の多くは自然とその縛りつける力を失う。

 そして自分自身が内側から支えられているのを感じることができれば、自然に私たちの目は他者に向く。

 今、社会にある不要な痛みや苦しみを減らすために何ができるか。奪われる必要のない生命が人の身勝手さによって奪われるのを止めるために、何ができるか。避けられるかもしれない病気から子供たちを守るために、自分には何ができるか。

 第6チャクラの視点は自分個人の利害を超え、人生を超えて、大きな視点、長い時間軸から世界を見ることを可能にする。

 そして第6チャクラの見るところにしたがって実際的な選択を行い(第5チャクラ)、行動をとる時(第1チャクラ)、第6チャクラは大地からのエネルギーで賦活され、安定し、さらによく機能する。これがヴィジョンと行動のポジティヴな連鎖であり、高い精神性に形を与えるということだ。


エネルギーの海 スピリット通信』2013年6月15日号(vol. 38)

|

« フラワーレメディを「当たり前のもの」に | Main | 環境の選択 »

07. 体と心 チャクラ オーラ エネルギー」カテゴリの記事