10. お金と仕事 夢をかなえる 自由に生きる

April 23, 2020

お金=エネルギーと物質の媒体

 「自分が学びたいことを学んだり、望む人生に形をとらせる。そのためのリソースはどう獲得すればいいのか」というのは、多くの人にとって重要なテーマだ。

 リソースというのは時間やエネルギーなど、この物質世界で夢や計画、仕事を成し遂げ、ゴールを達成するための力となる「資源」(リソース)だ。

 その中でも多くの人にとって複雑な愛憎の対象となっているものは、「お金」だろう。

 精神的な道程を歩む人々の中には、お金について口にするべきではない、あるいは自分の金銭的ニーズについて口にするのが恥ずかしいと感じている人もいる。

 ここでまず確認したい前提は、お金を含めたすべてのリソースは「エネルギー」だということ。

 「お金=エネルギー」というスローガンは、かつてのニューエイジ運動(今でいうスピ系かいわい)で乱発され、「ポジティブ・シンキングさえすればどっとお金が流れ込んでくる」みたいな考え方に翻弄された経験のある人にとっては、うざいものかもしれない。

 「お金を動かすためには、背後にあるエネルギーを動かす」という原理は正しいのだが、ニューエイジ運動が広めたインスタントな(ある意味、未成熟な)やり方では、お金を流れさせるためのエネルギーはなかなか動かない。

 どのようなものであれエネルギーの制御力を身につけるためには、修練と自己規律、そしてゆくゆくは自己と高い意志の間の整合性が必要で、これはそのまま、エネルギーを介してお金の流れを動かす力にも当てはまる。

 そうは言っても、お金の流れについては、それぞれの個人に生まれついての容量や「運・不運」といったものもある。意識的に取り組むことをしない場合には、この生まれついての設定内容がそのまま人生に形をとる。

 だから現にお金持ちであるということと、その人が意識的にお金の流れを制御する能力を身につけているかどうかの間に、単純な関係はない。

 もちろん、生まれついて幸運な人が、意識的に財政資源を活用することに努めれば、大きな結果が望める。

 生まれついての容量がそれほど大きくない場合でも、取り除けるすべての障害を取り除いて、最良の流れを得るように努めれば、適切な人生の枠組みの範囲で、金銭面での不自由に悩まされることはなくなる。

 しかし、制御能力さえ獲得すれば誰でも、自分の金銭的器(うつわ)をはるかに越えて大金持ちになれるというわけではない。誰もが資産100億とかになれるわけではない。

 そういう規模の財政資源を維持するには、何世代にもまたがって財政獲得能力と管理能力を身につけては積み重ね、それを遺伝子(=物質とエネルギー両レベルでの資質の伝達媒体)を通して伝えていくことが必要だ。

 こういう世代を通して積み重ねられた管理能力なしに成金的に大金を手にしてしまうことの不幸は、世に枚挙のいとまがない。

 充分な管理制御能力を持たずに大金(膨大な量のエネルギー)を手にする人は、多くの場合、そのエネルギーないしお金のアーキタイプによって乗っ取られ、お金のアーキタイプの影の面が人生を占め始める。「お金持ちになったとたん人が変わってしまった...」というあれだ。

 この場合は、それを乗り越えることができるかどうかが、人生のレッスン、そして主要なテーマになる。

 財政能力を含めたエネルギーの制御能力は、各人の人生を通して時間をかけて取り組みながら、総合的に磨いていく必要のあるものだ。なので、「これさえすれば」といった「お手軽ノウハウ」を挙げることにあまり意味はない。

 しかし、私自身が生活の中で心がけていること、励行していることの中から、ヒントを挙げることはできる。

 タイジング(tithing)は「十分の一税」などと訳されて、伝統的にユダヤ教徒やキリスト教徒によって、教会や聖職者の生活を支えるために収入の一部を寄付する献金のこと。キリスト教では現在は制度としては廃止されているが、まじめなユダヤ教徒の間では(ユダヤ系の富豪も含め)今も実行されている。

 そういう宗教的ニュアンスはさておき、現代の精神的な道のりを歩む者にとってのタイジングの基本精神は、自分の魂を潤し、支え、あるいはより高い自己のあり方を目指して歩み続けるためのインスピレーションや励ましとなるものに対して、自己の収入(自分の手元に流れてきたエネルギー)の一部を捧げることだ。

 ポイントは、自分の魂にとって励ましを与えてくれるものに対してそれを行うこと。それは同情や義務感、「もてる者の罪悪感」からチャリティなどに献金をするのとは異なる。

 また「タイジングをすることでお金が返ってくるのなら」という期待を込めて寄付をするのは、それは通常の投資と同じであまり意味はない(まあ、何もしないよりはずっといいが)。

 また「返ってこないかもしれない」という恐れを抱きながら、賭けるように差し出すことも意味がない。

 自分はこの世界によって支えられ、必要なニーズは満たされるという信頼と感謝のうちに、自分の魂にとってこの世界に生きるためのインスピレーションになってくれる活動や対象に対し、よろこびと感謝をもって自分のエネルギーの一部を捧げる。

 こうして手放されたエネルギーは流れるべき所に流れ、届くべき所に届き、それが自分の魂にとって望ましいことであれば、やがて自分にもその恵みは(時には大きく育って)戻ってくる。

 すべては高い意志のままに....そう祈りを込めて、手放すようにして送り出す。

 ここではじめて、お金がエネルギーであるという言葉の意味が生きてくる。

 自分のもとにお金という形で分け与えられたエネルギーを、それがさらに届くべき場所へと送り出すことに参加できるのは、生のサイクルを担う者としての役割でもあり、よろこびでもある。

 お金=エネルギーなら、エネルギーを私的に所有することなど誰にもできない。ただ一時の管理役となり、受け取り、自他を生かすために賢明に活用し、次の管理役に受け渡す。

 この流れを執着なく明晰なものにすることができた時、お金はシンプルなエネルギーとして自由に流れ始め、生命を生かすというエネルギー本来の役割を果たすことができる。

 人によっては、こういう境地から手元のお金を差し出すことができるようになるまでに、物質世界とその背後にある高い力に対する信頼を育てる過程が必要だろう。

 最初から完璧な態度で行えることを自分に要求せず、不安があるならその不安を正直に見つめ、自分の中の幼い自己や自己中な部分が文句を言うならそれを見つめ、それらの根がどこにあるかを探り、行動と内省を通して少しづつ自分を大人に育てていく。

 完璧にできないことを、行動を起こさないことの言い訳にするべきではない。

 
 そしてこのような形でお金/エネルギーを捧げることを考えた時、自分の魂を励まし、この世界に生きるためのインスピレーションになってくれるものとは何だろうという問いにも直面する。

 それは自分の人生の中でもっとも大切なもの、生きる理由や動機は何だろうという問いにつながる。

 時間をとって、考えてみよう。

 この人生にあって、自分にとって本当に大切なもの、価値とははなんだろう。自分のハートを開き、自己をより高い存在へと高める道程を歩み続ける意志を支えてくれるものは、なんだろう。

 そしてまた、今この世界の中で、金銭的援助の形で自分のエネルギーを送り届けることが、もっとも必要とされている先はどこだろう。

 難民の支援や貧しい国々の孤児たちの救済支援にしても、このような個人的視点からとらえ直し、
自分自身にとっての意味を見つけることができると、寄付の行為と内容に伴うエネルギーの質も変わってくる。

 そして少額であっても、自分の手元の恵みを分かち合うという理解のもとに、お金を送り出すことができる時、私たちの魂は潤う。

(2002年5月)

|