7月某日
しばらく前から、自分が変化の期間を通過中だということは感じていた。
日々の生活の中で、とりたてて具体的な理由があるわけでもなく、ただ意識が内側に向く。
外的な目印も方々にあったのだが、それには注意を払わず、障害物は静かに乗り越えて、マイペースで歩みを進めるだけという感じで生活を続けていた。
しかしこの数週間のうちに、目印は無視することができないほどに目立つものになっていた。
私生活ではスケジュールの管理と時間厳守がルールで、予約には必ず10分前には着いて待つのが習慣。その自分が、ロルフィングのセッションに3度続けて1時間近く遅れる(しかも1回はセッション日を間違え、2回は予約時間を間違えて)。
外出時にはいつも反射的につける腕時計を、つけ忘れて外出することが頻繁になる。
いつも確実に連絡のとれる友人とまったく連絡がとれなくなる。それ以外の友人とのコミュニケーションにも返事が返ってこない。
やたらにものがなくなったり、普通壊れるはずのないものが突然壊れる。
免許をとって以来初めて、車の車体をこすって修理しなければならないようなキズをつける。
仕事と旅行計画のために、いつも半年から1年先の予定を考えスケジュールを組むのが常なのに、まるで見えない壁に阻まれているように、12月より先の予定が立てられない。
飛行機に乗り損ねかける。飛行機の中でカバンの中に入ってることを確認した携帯電話が、目的地に着いてカバンを開けたらなくなっている...。
こういう出来事がこれだけ短期間に集中して起きるというのは、あまりあるものではない。少なくとも、生活がささいな部分に到るまでスムーズに流れることがずっと当たり前であった私にとって、外的な生活がここまで目立ってがたがたする時期というのは、長い間なかった。
外面だけを見れば、まるで自分の生活が小さなパズルのピースのようにてんでんばらばらに外れていくかのようだ。
だが、ピースの外れていくパターンに目を留める時、その奥底で、自分と外的な世界との関係が変わろうとしていることが明らかだった。
これまで自分が築いてきた自我と世界(世界=物質+時間)との関わり方が、一つ、また一つと根っこを引き抜かれていくような感覚がそこにある。
生活の中の無数の混乱は、その小さな表象だ。
そのことには気づいたが、かといって何ができるわけでもない。自我の視点から事態をコントロールして乗り切ろうとすることは、この時点に到っては無駄である。
そのことだけは、ここまで道を歩いてきた私は心得ている。
人生がまるで魔法のようになめらかに流れていた時の高揚感は、もちろん感じるべくもない。
しかしそのことを(驚くべきことに)大して不満にも思わず、ただ黙々と目の前の障害物を取りのけ、しておかなければならない仕事を処理する自分がいる。
こんな過程のまっただ中、カリフォルニアのサンラファエル山麓の僧院で数日を過ごす。
二日目、軽いトレッキングに出た。「この山はやさしいように見えて毎年遭難者が出る。絶対に踏み固められた山道の外にでるな」と警告され、ついでにクマやピューマ、ガラガラヘビなどについても注意されて、自然公園の入り口へ向かう。
乾燥気候のぱさぱさとした林の中をしばらく歩いた後、道が二つに分かれる。一方は山上へ、もう一方は滝へ出ると示された小さな標識がある。
滝の方を選んで歩き続ける。
砂漠性の南カリフォルニアの気候、40度近い炎天下、山肌を覆うホワイトセージが熱風に焼かれ、強い芳香性の匂いが流れてくる。背丈ほどの生い茂った枯れ草をかき分け、花崗岩の岩を乗り越えて、それらしい場所に着いたが、目の前は行き止まり。滝は完全に枯れて、岩肌には少しの水気もない。
したたる汗をぬぐいながら改めて周りを見回す。四方を高いごつごつとした岸壁に囲まれた谷の底に、自分がいる。とりつきようもない高さの崖が視界を遮り、見ることができるのはただ、高い空ばかり。鳥の声もずっと遠くの方からしか聞こえない。
ふと、自分が今いるのは、こんな場所なのだと思う。
しばらくたたずんだ後、小さな黄色い花を咲かせる植物が藪になっているのが目に入る。道の途中にも生えていたのだが、注意を払わなかった。よく見てみると、カラシナだ。
やせぎすでひょろりと長く、葉もほとんどわからないほど小さい。日本で見る青々とした野生のカラシナとはまったく似つかない。砂漠性の気候では、カラシナも必死で水分を保存するためにこんな姿になるのか。
小さな黄色い花に口づけをして、そのエッセンスを感じとる。
厳しい環境の中で、なお明るい色の花を咲かせるカラシナの花は、軽やかな光に満ちていた。
三日目、再びトレッキングに出た。
今度は峠への道を選ぶ。急な山道を登っていくと、驚くほど短時間の間にぐんぐん高度が上がる。汗をしたたらせながら速度を落とさずに登れば、一曲がりするたびに新しい景色が眼下に開ける。
山の高みへと昇りながら体を動かし、汗を流すことで、滞っていた感情エネルギーが代謝され、自分の中でひとりでに考えがまとまり始める。
僧院の食堂で同じテーブルにつく人々と交わす、とりとめのない会話。
ハワイに住んでいる。やりがいのある精神的な仕事についている。自分のスケジュールはすべて自分で決める。いろいろな場所を旅行して回っている。楽しみは絵を描くこと、趣味は海の生物と泳ぐこと...。
質問に答えて描かれる私の生活ぶりに、「なんて幸運な!」「すばらしい人生を築き上げたものね」と皆一様に口にする。
自我によって定義された「自己」と世界の中に心地よく座っていた頃なら、そんな羨望のまなざしにも、少しばかりのナルシスズムとともにうなずいた。
だが、今の自分は、長い時間をかけて築いてきた「思い通りの」人生さえも、昨日手にした小さな幸運と、何の違いもないことを知っている。それは聖書のヨブ記に描かれている通りだ。
突然に世のありとあらゆる幸運を与えることのできる神は、同じくらい突然にすべてを取り上げることもできる。その幸運が正しい努力を通して築かれたものであれ、まったくの気まぐれ的な僥倖であれ、違いはない。
魂が進化の階段を上るために必要ならば、いずれ幻であるところの物質的な獲得物や人格の要素を引きはがすことを、神はためらわない。
そして私もそれを拒まない。それ以外に道はないとわかっているから。
目に見える形で築かれたものは、結果でしかない。そして結果はゴールではないのだ。
精神的な道程を歩む中で、自分が身につけた真の財産と言えば、このことを理解するだけの智恵だったと言えるかもしれない。
自分から引きはがされようとしているのが、先に進むためにもう役に立たなくなった自己の外皮であることに気づいたなら、ただその過程に身を任せられること。地形の見えない足場の中で、ただ自分の中の中心点(自己の内に内在化された高い意志への信)だけを頼りに、歩を進められること...。
藪の中からブウンと音がして、何かが飛び出してきた。宝石のように美しい、緑色のハチドリだった。人には人生の重要な曲がり角で目にするシンボル(象徴)がある。それは時に自然と一体になった高い自己からの道しるべだ。
ハチドリは私にとってのそういうシンボルの一つだ。まったく予想もしない場所でこの鳥と出会い、驚かされたことが何度もある。輝く緑色の羽をしたハチドリは、まるで案内でもするかのようにしばらく山道を先導してくれた。
所々に赤い、名前のわからない花が生えている。花の形はコロンバインにもちょっと似ているが、山肌をはうように伸び、山道の上に身を乗り出している姿は、ちょうど天の赤い花とったふぜいだ。
花をつんで、とがった尻の部分を噛む。花びらはほのかに苦い。そして蜜は思いがけないほど濃い甘みがあった。
人間の目に完璧に作り上げたと思われる人生。だがそれを神の目により完璧なものにするためには、いったんそれを形にしているものをはずして、ばらばらにしなければならない。ばらばらになったパーツが、より高い秩序のもとに、もう一度一つになるだろうことだけを信じて。
そうだ、さなぎのなかの芋虫でもない蝶でもない生き物は、こんな感じを味わっているのだろうなと、ふと思う。
谷底から見上げた時には、遙かな岸壁の上と見えた高台。そこから見下ろす光景は、昨日とはうって変わって美しく広々とした展望を与えた。スペイン風建築の僧院の建物も、遙かな眼下に小さく見える。
こうして見下ろすと、昨日は荒涼とした砂漠性の環境と思われたものが、驚く量の緑で満たされていることに気づく。そして高所の風は、強い日差しを忘れさせるほどに涼しかった。
この光景を記憶におさめ、そしてまた私は地上に降りていく。古びた自我の殻と、人生の中ですでに意味をなさなくなった自己の部分が静かに解体される作業の続けられる場所に。
9月某日
航空会社から電話があって、なくした携帯電話が戻ってきた。どうもこの2か月半、ハワイアン航空の飛行機に乗って毎日ホノルルとロスの間を往復していたらしい。
期を同じくして、再び物事が流れ出し、あちこちでつながり始める。それが何を意味するのかは知らないが、とりあえず仕事がはかどるのは助かる。
(2003年7〜9月記)