01. ヒーラーという仕事

September 17, 2009

2009年 夏の集中研修(長野)

 今年で7年目になった長野での夏の集中研修、本当にいろいろな意味で充実していた。

Cakesclose_2  初のハンズオン・ヒーリング科の卒業式は、もちろん重要な出来事。式に11人の子供たちがいっしょに参加してくれたのにも、大きなメッセージが込められていたと思う。

 子供たちの多くは過去の研修やフラワーエッセンスの卒業式にも出ているので、実は連戦の研修参加者(笑)。

 教室でお母さんたちがレクチャーを聞いたりヒーリングの実習をする間、横で静かに夏休みの宿題をしたり絵を描いたりしていた風景も、毎年のことながらなんともほほ笑ましかった。

 そしてこれも毎年、子守りに奮闘するお父さんたちにも感謝と感嘆を禁じえない。あらゆる年齢の子供たちをまとめ、川で遊ばせたり、バーベキューや花火をしたりと、朝から晩まで驚くべき忍耐と体力だ(笑)。

 私にとってまったく個人的な意味でうれしかったのは、「竜涎香」事件(こちらは『ヒーラー&アルケミスト』にあらましを書いた)。

 とにかく楽しくて、5日間は本当にあっという間だった。

 以下はぽつぽつ届いている参加者の感想から紹介。


                ☆☆☆


 今回入野谷に参加したのは、昨年に引き続き2回目でした。

 リトリートの醍醐味は、クラスをみっちり受けられるということと、そこで得た経験を参加者の皆さんと一緒にシェアして過ごせることだと思います。

 バーベキューをしながら川で遊んだり、地元のお祭りに飛び入り参加して、地元の方に焼きとうもろこしをサービスして頂くという嬉しい交流もありましたし、普段あまり会えない方々と一緒に、お食事をしながらお喋りをする何気ないひと時も、私にとってはとても貴重なものでした。

 今年は特に、ハンズオン・ヒーリング科から初めて卒業生が出ることに加えて、先生である由衣さんも正式な聖職者になられたばかりでしたから、本当の意味での「卒業の儀式」に参加できるという事もあり、事前から期待と興奮でいっぱいでした。

 長い間皆を支えて下さった大先輩が卒業してしまうということは、後輩の自分にとっては喜ばしくもあり寂しくもあり、複雑な感覚でしたが、式は愛情溢れる本当に素晴らしいものでした。こんなに重みのある「卒業式」は、自身を振り返ってみてもなかったことです。

 最後に子供たちと大騒ぎしながら食べた大きなケーキは、最高においしかった!! 参加出来て本当によかったと思います。ありがとうございました。


                 ☆


 研修では、今まであまり意識していなかったアルケミーの歴史の重みが、由衣さんを通してすごく身近に自分の事として感じられ、また自分が何をするべきかを突き付けられたような気がしました。
 ......

                 ☆


 簡単ですが、入野谷の感想を送ります。

 久しぶりのクラスでしたので、いちいち感動していました。

 レクチャーは、ひとつひとつが胸にしみこんで、魂が満たされるという喜びを感じました。

 神経系のヒーリングの実習では、[クラスメートから]とてもパワフルなヒーリングを受けられて、クラスの器の深さを感じました。

 平日のクラスには当分でられないので、宿泊の研修のクラスはありがたいです。

 それと、ウエイトトレーニングをしないとクラスに在籍していられなくなるな...と思うくらいの勢いで、ゆいさんがおっしゃていたので、夫と一緒にやってみる予定です(なぜウエイトトレーニングが必要なのかが、わかったので)。

 普段の生活では、全体を見回して、気をつかって、そのように動いて...と、いつも気をはっているのですが、クラスにでると、ボケッとただそこにいることを許されているのだ!! ということに気づきました。

 貴重な場です。年に一回でもそこに戻れるというのは、私にとっても、子供にとっても、(多分、夫にとっても)ラッキーだと思います。ありがとうございました。

 卒業式は、とても高いエネルギーを感じました。フラワーエッセンスの卒業式の時は、密度の濃いお堂のなかにいるような感じでしたが、今回はすっきりとしていて、光がまぶしかったです。

 何年か前に高原さんとお茶を飲んでいたときに、「ヒーラーは真剣にクライアントと向き合って、そこにいられるかということだけなんや」とおっしゃっていたことを思い出しました。その言葉通りのことを、体現されていることに、感動しました。

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July 23, 2009

卒業、任職

 この7月、9年間在籍した神学修士課程を卒業し、カリフォルニアでの聖職按手式を経て、公式の聖職者(アメリカ合衆国法で正規に認められる牧師/司祭)として任職した。

 在籍の6年目に師匠からありがたくも「卒業準備」のお達しを受けたものの、それから納得のいく卒業プロジェクトのテーマを探して結局2年間うろうろ。ようやく落ち着けるテーマを選び、アウトラインを作成提出して許可を受け、9か月かけて資料を集め、仕事の合間をぬって書き進めた。

 しかしヒーリングや教える仕事と平行して執筆を進めながらいろいろ思ううち、どうしてもテーマを変更したくなった。というわけで、それまでのアカデミックなアプローチのプロジェクトをえいと放りだし、コミュニティ奉仕の枠組みでまったく新しいアウトラインを再提出。その後3か月間、毎日机の前に座って無我夢中で書き上げるという怒濤の執筆過程(笑)。

 しかし論文提出は単なるハードルの1つ。卒業生や長くいる学生たちの間では、提出後、少なくとも半年から1年はお沙汰がないのが通常コースと知られている。

 「どうやって入ったらいいか誰も知らないし、どうやって出たらいいのかも誰もわからない」と冗談のようで冗談でなく語られるHLCCの神学課程では、履修単位の満了や卒論の提出は「卒業」の保証ではない。だからいっそ大部分の人は、自分から卒業について問い合わせるなどという大それたことはせず、こつこつと研修を続けながら、お声がかかるのを静かに待つ。

 私の場合、幸運にもまず師匠からのお達しがあり、さらに2年後、アウトラインも出さずにうろうろしているところを「私があなたを卒業させるつもりなのは知っているでしょ!」と尻をたたかれていたので、卒業させてもらえること自体については心配しなくてよかった。問題は日取りが決められるかどうか(笑)。

 12年の研修を経て2年半前に任職したシンシナティの友人に訊いてみたが、彼女の場合、論文提出から日取りが決まるまでに4か月で、実際に卒業したのは8か月後だ(これでも超スピーディな経過)。

 そこから推せば今年の後半、もしかしたら来年になるかと思ったが、しかし私自身のガイダンスは「任職は7月、カリフォルニアだ」ときっぱり。

 普段から「返事をする準備ができてないのに返事を要求されるのが大嫌い!」と公言する師匠のこと、うるさく問い合わせをしてはいけないのだが、ガイダンスを無視することもできず、論文を提出してから3週間目にメールでお伺いを立ててみた。驚くべきことに翌朝、返信が...「この7月、カリフォルニアで」。

 おお...っていうか、師匠、日取りまでに1か月切ってます(笑)。

 予約だけ入れてあった飛行機のチケットをあわてて購入完了し、ホテルなどを手配。ボルネオからアメリカは、行きつくだけで2日かかる。今回は台北・東京経由の1泊2日がかりだ。

 式の参列は研修の参加者(ほとんどが7、8年来の顔見知り)と、付き添いにはうちの連れとサンディエゴ在住の旧友。

 当日、駆けつけた友人と夕食をともにしながら、「卒業するのは何人?」と訊かれた。...もうずっと、2、3年に1人のペースでしか卒業生は出ていない。そして今年も1人。「忘れた頃に卒業生が出る」と師匠は言われた。

 ロザリン・ブリエール師の神学課程は「Crucible(溶鉱炉)」と呼ばれる。それはアルケミーの溶鉱炉であり、変容と蒸留の器(うつわ)だ。「卒業」に到るための道しるべもないし、どうやって進むかの手引きすらない。形式としての卒業条件も最低限の足場でしかない。

 ただ聖職者への道のりという溶鉱炉の炎に熱せられながら、空の光を見失わず、それに呼応する自分の中の光を頼りに、ひたすら目に見えない世界への信頼と、自己の意志で歩を進めるのみ。そうやって歩き続けることができなければ、暗闇の中でも人を導いていくのはかなわないということなのだろう。

                 ☆

 研修期間をかけて準備されたエネルギーの器の中、式前夜のお祝いとメッセージを兼ねたトランス・セッションから始まり、そして当日の聖職按手と任職式。それは前もっての予期や想像をまったく超える恵みだった。

 按手礼は、使徒の時代から途切れることなく行われてきた、一人の経験深い聖職者から新しい任職者へと、それまで受け継がれてきた権能やエネルギーを手づから受け渡す過程だ。

 教会の聖職者であるだけでなく、チベットのボン教の巫女であり、また北米先住部族のメディスン・ウーマンとして、驚くほどの量の「知恵」の流れを一身に受け継いできたブリエール師の手から、私の頭、そして全身へと直接、伝え渡されたエネルギーの量と内容は膨大なもので、「身に余る」というのはまさにこういうことだと思った。

 与えられたすべてを自分の中に統合し終わるまでには、いったいどれだけかかるだろうと思いつつ、自分に伝えられ任されたものを受け継ぎ、また受け渡していくために、残りの人生をかけて応えていく決意を新たにした。

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February 25, 2009

近況(2009年2月)

 5週間にわたるカナダ&東京滞在から、ボルネオの自宅に帰ってきました。

 この1月から2月にかけては、ハンズオン・ヒーリング科の学生たちによる病院でのボランティア活動。私自身のカナダの先住部族居留地や医療機関での奉仕活動。ハンズオン・ヒーリングに知識のない一般の方々を迎えてのヒーリング・クリニックなど、実にいろんな、そして大切な出来事がいっぱいありました。

 とにかく忙しくて書き物をする時間がとれていませんが、とりあえずいろいろ準備中です。

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March 13, 2008

2008年、スケジュール立て込み

 サイトのスケジュールを見て、「なんか2008年はクラスがいっぱい!」と思った人もいるだろう。

 これはたまたま今年、夏の始めの引っ越しなどもあって、日本にいる期間が長くなっているため。

 日本にいる時間を最大限使おうと、とりあえず押し込める週末や祝祭日にクラスを押し込んでみたということで(笑)。

 しかし、例年になくオープンの講座が多くあるので、自由プログラムや専門トレーニングに入るために回数を数えている人にとっては、チャンスかもしれない(笑)。

 本当は私自身、書き物にかける時間も必要なのだが.....

 ....とか言いながら、スクールのスケジュールには記載していないが、外部講師として動物のヒーリングについての講義の仕事なども入っている。

 それでも、近年になく日本にいる時間がたっぷりあるので、できるだけ自然の豊かなところをあちこち訪れ、植物観察や、忙しさにまぎれてしばらく間が開いていた、新しい日本のフラワーエッセンスの生成とリサーチにもとり組みたいと思っている。

 

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November 02, 2007

ハンズオン・ヒーリングについて

ハンズオン・ヒーリングとは?

 訓練されたハンズオン・ヒーラーは、クライアント(依頼者)が心身のバランスをとり戻し、病気や怪我からの回復が速やかでスムーズなものになるよう、サポートします。

 ハンズオン・ヒーリングは、ホリスティック医療・補完医療の一環として、人間の生命エネルギー場(ヒューマン・エネルギー・フィールド)を通して肉体と心に働きかけ、癒しを促す療法です。

 西洋文化圏にはもともと、「laying-on-of-hands(手当てによる癒し)」の伝統がありますが、この伝統をさらに科学とも相容れる形で発展させたのが、近代ハンズオン・ヒーリングです。

 近代ハンズオン・ヒーリングでは、肉体を包みそれを超えて存在する「場」として、ヒューマン・エネルギー・フィールド(生命エネルギー場)を考えます。このフィールドは、私たちの心と肉体の状態や健康度をそのまま反映し、また心と体の関わりを媒介する性質を持ちます。

 最新の心身統合医療が提唱するように、心の状態は肉体の健康に影響を与え、肉体の状態は心のあり方に影響を与えます。東洋医学でも、「気」(生命エネルギー)のバランスが心身の健康の土台であり、病気は肉体に現われる前に「気」のバランスの乱れとして現われるとします。

 ハンズオン・ヒーリングでは、この心と体の関わりを媒介するのがヒューマン・エネルギー・フィールド(オーラ・フィールド)であり、このフィールドに直接働きかけることで、心と体の健康に影響を与え、それが本来あるべき健全な状態とバランスを取り戻すのを助けることができると考えます。

 ハンズオン・ヒーラーとは、このような形で健康の維持と回復の手助けをする専門家です。

ハンズオン・ヒーリングと医療の関係

補完医療としてのハンズオン・ヒーリング

 35年前、近代ハンズオン・ヒーリングの確立者であるロザリン・ブリエール博士は、エンジニアとしての教育背景を生かし、さまざまな癒しの伝統の訓練と知識を統合し、それらを実際の臨床に生かせる形にまとめて世に出しました。

 博士は現在、世界中で使用されている「キレーション」と呼ばれるヒーリング・テクニックの創始者です。

 アメリカ最大手のヒーリングスクールBBSH(Barbara Brennan School of Healing)の創設者バーバラ・ブレナン女史も、ブリエール師からヒーリングを学びました。(ブレナン女史は『How People Heal』のインタビューで、「ヒーリングについてのあらゆることをブリエール師から学んだ」と語っています。)

 ブリエール博士は、米国国立衛生研究所「近代代替医学発案委員会」発足当時から顧問を務め、真のホリスティック医療を目指して、ヒーリングと医学の仲立ちをし、統合を推し進めてゆくために、自ら積極的に病院や大学付属研究室での臨床研究に関わってきました。現在は、ジョンズ・ホプキンス医大付属ケネディ・クリーガー研究所やシカゴ子供記念病院での臨床研究に参加し、またアリゾナ州立大医学部の統合医学プログラム、タイ・ソフィア・インスティテュートの応用ヒーリング修士課程などで教鞭をとっています。

 ブリエール博士の活動は、つねに近代医学とハンズオン・ヒーリングの接点を探り続ける、この分野での最先端と言えるものです。それは、補完医療としてのハンズオン・ヒーリングに何が可能か、どのような形で医療の専門家たちと協力し、また一般社会に受け入れられ、現実的な形で人々のために役立っていくことができるかについての、ヴィジョンと方向性を示すものと言えます。

ハンズオン・ヒーリングに関する本

・『光の輪』ロザリン・L・ブリエール博士著

・『癒しの光(上)』『癒しの光(下)』バーバラ・アン・ブレナン著

英語の読める人はこちらも

ジョンズ・ホプキンス医大付属ケネディ・クリーガー研究所ニュースレター
『Touch』2003年春号
2003年6月プレスリリース(エネルギー療法の効果に関するリサーチについて)
 (ケネディ・クリーガー研究所は、脳の外傷性障害や自閉症を含む発育障害のある子供たちの治療、臨床研究と専門家の継続教育で国際的に知られる医療機関です。)

ヒーラーとヒーリング教育

 日本では「(ハンズオン)ヒーリング」の定義は、まだはっきりと確立されていません。週末セミナーで学んだだけの人も、長期の教育と訓練を経ている人も、一緒くたに「ヒーラー」と呼ばれているのが現状です。ですから一言に「ヒーラー」と言っても、教育背景、訓練のレベルと臨床経験の内容には大きな幅があり、仕事の内容にも違いがあります。

 ヒーラーを探す場合、とくに、より肉体に近い実用的、現実的なサポートを求める場合には、自分が求めるのはどのようなヒーラーなのかをあらかじめ検討し、興味をもったヒーラーの背景や経験についてチェックしてみるのは、常識的なステップでもあり、また時間とお金(=エネルギー)の賢い使い方です。

 このようなクライアント側の賢明な態度は、ヒーリング界とヒーラー全体の質を向上させるのにも貢献します。

☆ 王由衣のヒーリング・セッションについて知りたい人は、こちら

☆ しっかりとしたハンズオン・ヒーリングを学びたいと思う人は、こちら

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November 09, 2006

ホノルル・カリフォルニア・シンシナティ

 ホノルルに戻った翌日、ハワイ島の大地震。揺れの10分ほど前に目が覚めた。

 ベッドで大きな横揺れを感じながら、自分がまだ日本にいるのかと思った。丸1日近い停電以外、被害はなし。

 エアコンを入れないと仕事ができない暑さのホノルルで10日過ごし、すでに秋めいたカリフォルニアのベイエリアへ。2週間ほどカリフォルニアで過ごして、その後、神学課程の研修のために零下のシンシナティへ。

 今回のシンシナティ研修では、長年の友人が卒業、聖職者としての叙階を受けた。今年唯一の卒業生だ。彼女が研修に費やした時間は12年以上。

 この半年、卒業が近づくにつれて彼女の通過していく変化を見、これほど長い時間をかけて準備したイニシエーションのパワーについて思った。

 私自身、そろそろ卒論の準備に入らないといけないので、友人の叙階式に参列するのは励みにもなり、気も引き締まる。

 

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July 05, 2006

ブログ更新再開

 シャスタ山でのリトリート、それに続く北カリフォルニアでの乗馬ツアー。

 10年ぶりに戻ったシャスタ山は、やっぱり光に満ちていた。経験はじわじわと効いてきている。

 さぼっていたブログを、そろそろまた更新再開します。

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July 25, 2005

師匠の家は動物園

 私のヒーリングの師は南カリフォルニア在住だ。ご主人は空手6段の武道家で、20年近くロスで道場を開いていた。そのご主人からウェイトトレーニングの個人レッスンを受けるため、師匠のところにしばらく滞在した。

 私の動物好きは並ではないが、師匠のそれも並ではない。

 到着した最初の晩、師匠宅に足を踏み入れると、淡褐色のグレーハウンドが迎えに出た。半年ほど前に、グレーハウンド・レスキュー(ドッグレースからグレーハウンドを助け出すグループ)から引き取られてきたという犬だ。

 しゃがんで挨拶をすると、ぺろりと鼻をなめられた。「あらまあ」と師匠が驚く。この子は普段、人の顔をなめることをしない犬なのだそうだ。

 さらに二匹のアビシニアン猫たちが足下にすり寄ってくる。

 師匠はリヴィングで小さなオウムをかごから出すところだった。

 「4週間前にね、野生のオウムの巣から落ちたのを拾ってきたのよ」

 もとの巣を探して戻すことができなかったので、そのまま引き取って育てているという。ちびオウムを台所につれて行き、餌を食べさせ始める。

 もう一羽、昔からいる大きなオウムが、リヴィングの向こうからこちらを見る。

 「蛇は元気ですか。パイソンだったかな」

 「パイソンは少し前に死んだわ。今いるのはコーンスネーク(ナミヘビ)ね」

 アビシニアンはエジプト系の猫だが、一昨年まで、バセンジというエジプト系の犬もいた。師匠の趣味はエジプトとヒョウ柄だ(いや、エジプト学の研究者でもあるから、趣味などといってはいけないのだが)。

 このグレーハウンドも、首にヒョウ柄のネックバンドをしている。

 私はこの7年がた、グレーハウンドのレスキュー・グループを支援してきた。将来の夢も、救出されたグレーハウンドを何匹か(できれば1ダースくらい)引き取って飼うことだが、実物のグレーハウンドを見るのは実は初めて。見たこともない犬種になぜここまで入れ込んでいるのか、ずっとわからなかった。

 ヒョウ柄のクッションに寝そべる犬に目をやる。ぴんと耳を立てたその細表の顔... そのシルエットは、なんと、エジプトの犬頭の神アヌビスにそっくりではないか。ついでに目のまわりにはエジプト風の黒い隈取りまで入っている。

 「そうよ、アヌビスはグレーハウンドよ。グレーハウンドの姿はエジプトやローマの壁画にも残ってるわ」

 アヌビスはエジプトの神々の中でも私がとくに好きな神様だ。小学校の頃に百科事典の写真を見て、しきりにアヌビスの姿を模写していたのを覚えている。グレーハウンドへの愛着はこんなところにつながりがあったか。

 夕食の後、師匠とグレーハウンドと散歩に出た。

 耳の内側に刻まれた入れ墨によれば、この子は3歳。それそろレースの盛りを過ぎ、レスキュー・グループに助けられていなければ、殺されていたところだった(「グレーハウンドを救え」)。

 だが、今、彼女は優しい保護者のもとにある。そしてその余生をゆったりと、幸せに過ごせるだろう。

 夕暮れの学校の広いグラウンド。日暮れの光の中を風のように駆けるグレーハウンドの姿は、美しかった。

 翌日、まっ白なグレーハウンドが連れられてやってきた。後ろ足にはギプスが巻かれている。レース中に足を骨折し、そこをレスキューグループに引き取られてきた犬だ。骨折をしたグレーハウンドは、ただちに処分の対象になる。

 この子の里親がしばらく留守にするため、師匠宅で子守りを引き受けたのだという。

 とても人なつこい性格で、一生懸命こちらの顔をのぞき込み、ぴったり体を寄り添わせて甘えてくる。本当に過酷な生を歩んできた犬なのに、どうしてこんなに人を信頼し、こんなに愛情深いのだろうと切なくなる。

 その夜は師匠とご主人、それに私で、ハンズオン・ヒーリングをした。起きかかっている炎症を抑えるためにリンパ系を浄化し、骨折の治りを早くするため、骨にもたっぷりエネルギーを入れる。

 適切なハンズオン・ヒーリングは、骨折のような怪我の治癒時間を最大、半分にまで縮めることができる。自分の体重より重いバーベルを持ち上げるご主人のエネルギーは、骨を内側から生命力で満たすパワフルで密なエネルギーだ。

 (そう、私がウェイトトレーニングのレッスンを受けているのは、健康管理という以上に、ヒーラーとしての腕を上げるためである。)

 翌朝には白いグレーハウンドは驚くほど元気を取り戻し、熱も下がって、ギプスをものともせずに家や庭を歩き(時に走り)回るようになっていた。

 その日の午後、トレーニングを終え、カルマヨガとしての庭仕事を終えて、2匹のグレーハウンドと庭に座っていると、師匠が出てきて植物に水をやり始めた。パティオののきからは、たくさんの観葉植物がバスケットに入ってつり下げられている。

 その中の一つ、シダ系の葉っぱが植わっているバスケットに、朝からキジバトが座っていた。キジバト独特ののんびり、まったりした様子で、黒く大きくつぶらな目をしてバスケットに納まっている。近づいても逃げる気配もない。

 と、水の出るホースを手にした師匠がそのバスケットの下に立ち、じっと見上げている。

 師匠、それは鳥です。

 しかし師匠、何を思ったか、おもむろにホースをバスケットに向けた。

 鳥はゆっくり立ち上がると、ちょうど小鳥が水浴びをするように羽を広げてぱしゃぱしゃと水を受け、それからまた何事もなかったかのようにちょんと座り込んだ。

 「あっはっはー 鳥に水をやっちゃったよ!」

 師匠の笑い声が響いた。

 翌朝、見ていると、もう一羽のキジバトがやってきて、先にいた鳥と交代してそのバスケットに座った。そうか、卵を産んで温めているのだ。このバスケットを巣にしてしまったのである。

 そのことを師匠に告げると、やれやれといった顔をした。実はしばらく前に別のキジバト夫婦が他のバスケットを巣にして子育てをしていった後だという。雛がいる間は水をやるわけにいかなかったので、そのバスケットの植物は枯れてしまったらしい。

 「きっとエネルギーレベルで『見捨てられた動物、保護の必要な動物はここに来るべし』なんて看板が立ってるのよね」

 そう言って師匠は笑った。

 
 

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June 27, 2005

ヒーリングを通しての奉仕活動(カナダ)(2)

 カナダのファーストネイション(先住部族)居留地での奉仕活動から帰る。 

 アメリカ国内での経済・保安両面の世知辛い状況を反映してだろう、今年は参加ヒーラーの数が定員に達しなかった。

 そんな中でもアメリカ各地やヨーロッパから手弁当でやってくる参加者はもちろん、やる気満々。私は日本での仕事を終えて、そのまま東京から直接カナダのバンクーバーに飛んだ。

 ロザリン・ブリエール師のコミュニティに足を踏み入れて今年で5年目。初日の朝にミーティングルームを見回せば、まわりは友人や知人だらけだ。

 やってきた患者は一人残らず治療するというコミットメントのもと、4人1組でチームを組んで、朝の10時から夜の11時近くまで次々と訪れる人々の治療に当た
る。

 私も旧知の古株ヒーラー2人に、これが初参加という1人と一緒に、上は部族の長老(エルダー)、酋長(チーフ)から下は赤ちゃん、小学生までの様々な病気、症状と向かい合った。

 ヒーリングとは何かといったことは知らず、ただ知人からの口伝えに「病気やいろんな症状がよくなるらしい」とだけ耳にして訪れてくる人たちを迎え、治療を行いながら、奉仕活動としてのヒーリングは、やはり自分にとってヒーリングの意味を再認識する原点だとつくづく感じる。

 朝から夜まで立ちっぱなしで仕事をするので、3日目くらいに入ると、普段から足腰を鍛えていないヒーラーは端から見ても相当つらそうだ。

 しかしそんなことはお構いなしに、患者の振り分け係であるブリエール師のご主人(拳法家)は、ヒーリングが終わり患者がベッドから降りるやいなや、チームに一息を着く間も与えず次の患者を置いていく。

 「すべては患者のために」の合い言葉のもと、チームはただちにモードを切り替え、次の患者を笑顔で迎える。

 普段から耳にたこができるほど言われているように体を鍛え、長時間の肉体ストレスがそれほど苦痛にならないヒーラーでは、3日目頃から一種のハイ(高揚)状態になってくる。

 1日目はどうしてもチームの調整期間。メンバーは普段それぞれ、プロのヒーラーやヘルスケアの専門家として仕事をしている。そこからくる自分のやり方へのこだわりや、プライド、エゴなどをたたんで、チームとしてのオーラ(エネルギーフィールド)を形成していく。

 この調整時期を過ぎてチームの息が合ってくると、一つのチームは互いのエネルギーフィールド(オーラフィールド)を共有する。つまりセッション中、ヒーリング用にチューニングされた4人分のヒーラーのエネルギーが自分の中を巡るようになる。

 これでハイにならないはずがない(笑)。

 このおかげで、時間中にまとめる暇のない患者のカルテを、貴重な昼食時間を割いて整理するといった精神的余裕も生まれる。夜の仕事を終えて、チームとそのまま夜食を食べにレストランになだれ込み、一騒ぎしてホテルに帰り着いたら深夜零時を過ぎていたりなんてことにもなったりする(一晩と言わず)。

 そして翌朝ももちろん元気に仕事だ(笑)。

 先住民居留地での奉仕活動を通してブリエール師が成し遂げようとしているのは、単なる個々の病気の治療やヒーラーの臨床教育だけではない。

 まだ息の白くなる早春のカナダの冷たい空気の中を、会場となっている居留地の体育館へ歩いて向かいながら、「我々が癒そうとしているのは八世代に渡る憎しみ」というブリエール師の言葉を、幾度となく自分の中で繰り返した。

 それは北米先住部族(「インディアン」)とヨーロッパからの移住者との間の、不幸な歴史について指している。

 八世代あまりにわたり居住地を奪われ、虐殺され、迫害され、今なお差別され続けて現在に到る、北米先住部族の抱える深い傷。それを背景とするアルコールや薬物依存、心の病。あるいは国の医療制度から適切な扱いや治療を受けることができないままにおいておかれる、様々な慢性病。

 それに対してただ無償でハンズオン・ヒーリングという小さな助けを差し出すこと。

 それを受けとるかどうかを決めるのは部族の人々。どんなタイミングで受け取り、どのように反応するかを選ぶのも彼らであり、我々はただできることを黙って差し出すのみ。

 差し出すものが受けとられ、部族の中の癒しの一助となっていくまでには長い時間、場合によっては幾世代かの時間がかかるかも知れない。長い時間をかけて刻まれた民族の魂の傷の癒しには時間がかかる、それは当たり前だ。

 だが、体育館の床を走り回りながら、時にヒーリング中のテーブルに駆け寄り、ヒーラーたちの手元を見ていた少女が、家に帰って見よう見まねで両親の体に手を当てたと聞いた時、希望の光を見たと思った。

 居留地を訪れるアメリカやヨーロッパのヒーラーたちは、部族の人々が今も維持する、一つの部族全体がそのメンバーの一人一人を包み支える、昔ながらの人間の絆のあり方、そしてまた大地との深いつながりを経験する。そしてそのようなつながりを体感的に学び、現代社会の偏りの中で育てられてきた自己の一部を癒す機会を与えられる。

 差し出すヒーリングが、癒しにかかる時間をわずかでも短くすることができたなら、それで「介入者」としてのヒーラーの仕事は果たされる。

 癒えるのは魂自身、肉体自身、その力。ヒーラーの仕事の第一義はそれを真実として見てとることであり、そうしてその視点から魂と肉体を支えることに他ならないからだ。

 居留地のある北ヴァンクーヴァーは、桜の花に彩られていた。北に見える近隣の山々は、まだまぶしい雪の冠をいただき、その麓、まだ冷たい風の中に花開く淡いピンクの桜の花は、思いもかけない場所で懐かしいものに出会うよろこびを与えてくれた。

 次は白頭鷲たちの飛び交う初冬に戻ってこられるといい、そう思った。

(2004年4月記)

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June 26, 2005

「脱皮」

 沖縄でのリトリートが終了。
 完璧性の私としては珍しく「何もかも文句なし」と言い切れるくらい、最高のリトリートだった。
 沖縄南部の海と森の接する土地で、文字通り手で触れられるような濃密な神聖な存在のエネルギーに触れ、守られ、導かれながら日々を過ごした。
 毎早朝のウタキ(御嶽)参りから、夜遅くまで続いたトランス・メディテーション。合間を挟んで、身震いするほどパワフルな女神のエネルギーが今も住む久高島への遠足や、美しい無人島での海遊び。
 経験の一つ一つを、様々な花や果実、蝶やハチドリ、バッタ、トカゲやウミヘビといった、豊かな自然から送られる共時的な象徴が彩る。
 多くの人が夢やメディテーションの中でイメージやヴィジョンを共有し、まさにドリーム・ボディ(夢の体)が共有された時間でもあった。打ち合わせたわけでもないのに、最後の夜の夢やメディテーションの中で、「脱皮」を経験した人も多かった。

 リトリートの間中、自分はシッター(そばに座って見守る人)に徹し、毎晩、参加者の語る経験に耳を傾け、リトリートの経験がそれぞれの魂に印象を刻み、変化を引き起こすのに目を細めた。
 開かれたハートから互いの存在を受けとめ、ただ自分であることが許されるグループの中で、神聖な空間を共有し、遊び、食べ、眠り、互いに在る経験をすることを通して、人はここまで癒される。
 それは見守る私自身にとっても、新しい気づきだった。

 リトリートの後、本州に飛んで、来年のフラワーエッセンス作りの準備に、何日か山を歩き回った。
 実はリトリートの後半に腰を傷め、立っても座っても、寝ていても痛みの走る状態だったのだが、やりたいことがあるとなると肉体の痛みを無視する能力には、我ながら尋常でないものがある。
 ウェットスーツを脱ぎ着するにも難儀な状態で、海にも入ってシュノーケリングを楽しみもすれば(あんなに砂浜から近いところでウツボやクマノミを見るとは思わなかった)、山歩きには、ドラッグストアで見つけた腰痛用のベルトとかいうのを巻いて体を支え、リュックを背負って歩き回った。(帰ったら行きつけのロルファーに怒られるなあ...と思いながら。)

 空港でアメリカに帰る飛行便を待ちながら、コリン・ウィルソンの言う至高体験のような、不思議な高揚感が自分を包むのを感じる。
 本当にどうでもいいような日常的で些細なことが、なんともいえず人生の「よさ」を象徴するかのように感じる、あの感覚だ。

 それでもさすがに泥のように疲れてハワイにたどり着き、まる1日眠った。
 目を覚まして、あたりを見回し、ふと自分自身、皮を1枚脱いでいることに気がついた。
 自分が誰か、何をやりたいのか、そんなことはもうわかっていると思っていた。だが、皮が脱げて、目からまた1枚、鱗が落ちてみると、以前にも増して自分が誰なのかがはっきりと見える。
 見渡せる限りの自分の過去が、どれほどまっすぐに一本の線で貫かれ、今自分がここにいることを可能にしているのか。そしてその先に続くのは、どんな道なのか...。

 何をどうしようと変えようのない、自分。そして、そのことが限りなくうれしい。
 自分自身も自分の人生も、完璧なものというにはほど遠い。だが、それでかまわない。不完全な自分のもとにも、完全な瞬間は訪れる。人生が時折、空から羽のように落としてくれるそんな瞬間を楽しみに、自分はただ自分の道のりを歩いてゆく。
 ユングは言う、「汝自身の至福を追え」と。

 さて、皮を脱いだところで、やらなければならないプロジェクトが発生した。
 住居の模様替えである。
 自分の中でいろいろな要素の優先度がシフトし、それに合わせて居住空間の調整をしなければならないと強く感じられ、まだ残る腰の痛みもなんのその、家具を引きずって動かし回してしまう。
 そして引っ越し以来、どうしても荷開きのできない持ち物が二つあったのだが、それらが収まる空間が生まれる。
 とりあえずはこんなものか。そしておそらく来年はまた引っ越しだ(笑)。

(2003年10月記)

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自分、作業中(変容の通過点)

7月某日

 しばらく前から、自分が変化の期間を通過中だということは感じていた。
 日々の生活の中で、とりたてて具体的な理由があるわけでもなく、ただ意識が内側に向く。

 外的な目印も方々にあったのだが、それには注意を払わず、障害物は静かに乗り越えて、マイペースで歩みを進めるだけという感じで生活を続けていた。

 しかしこの数週間のうちに、目印は無視することができないほどに目立つものになっていた。

 私生活ではスケジュールの管理と時間厳守がルールで、予約には必ず10分前には着いて待つのが習慣。その自分が、ロルフィングのセッションに3度続けて1時間近く遅れる(しかも1回はセッション日を間違え、2回は予約時間を間違えて)。

 外出時にはいつも反射的につける腕時計を、つけ忘れて外出することが頻繁になる。

 いつも確実に連絡のとれる友人とまったく連絡がとれなくなる。それ以外の友人とのコミュニケーションにも返事が返ってこない。

 やたらにものがなくなったり、普通壊れるはずのないものが突然壊れる。

 免許をとって以来初めて、車の車体をこすって修理しなければならないようなキズをつける。

 仕事と旅行計画のために、いつも半年から1年先の予定を考えスケジュールを組むのが常なのに、まるで見えない壁に阻まれているように、12月より先の予定が立てられない。

 飛行機に乗り損ねかける。飛行機の中でカバンの中に入ってることを確認した携帯電話が、目的地に着いてカバンを開けたらなくなっている...。

 こういう出来事がこれだけ短期間に集中して起きるというのは、あまりあるものではない。少なくとも、生活がささいな部分に到るまでスムーズに流れることがずっと当たり前であった私にとって、外的な生活がここまで目立ってがたがたする時期というのは、長い間なかった。

 外面だけを見れば、まるで自分の生活が小さなパズルのピースのようにてんでんばらばらに外れていくかのようだ。

 だが、ピースの外れていくパターンに目を留める時、その奥底で、自分と外的な世界との関係が変わろうとしていることが明らかだった。

 これまで自分が築いてきた自我と世界(世界=物質+時間)との関わり方が、一つ、また一つと根っこを引き抜かれていくような感覚がそこにある。

 生活の中の無数の混乱は、その小さな表象だ。

 そのことには気づいたが、かといって何ができるわけでもない。自我の視点から事態をコントロールして乗り切ろうとすることは、この時点に到っては無駄である。

 そのことだけは、ここまで道を歩いてきた私は心得ている。

 人生がまるで魔法のようになめらかに流れていた時の高揚感は、もちろん感じるべくもない。

 しかしそのことを(驚くべきことに)大して不満にも思わず、ただ黙々と目の前の障害物を取りのけ、しておかなければならない仕事を処理する自分がいる。

 こんな過程のまっただ中、カリフォルニアのサンラファエル山麓の僧院で数日を過ごす。

 二日目、軽いトレッキングに出た。「この山はやさしいように見えて毎年遭難者が出る。絶対に踏み固められた山道の外にでるな」と警告され、ついでにクマやピューマ、ガラガラヘビなどについても注意されて、自然公園の入り口へ向かう。

 乾燥気候のぱさぱさとした林の中をしばらく歩いた後、道が二つに分かれる。一方は山上へ、もう一方は滝へ出ると示された小さな標識がある。

 滝の方を選んで歩き続ける。

 砂漠性の南カリフォルニアの気候、40度近い炎天下、山肌を覆うホワイトセージが熱風に焼かれ、強い芳香性の匂いが流れてくる。背丈ほどの生い茂った枯れ草をかき分け、花崗岩の岩を乗り越えて、それらしい場所に着いたが、目の前は行き止まり。滝は完全に枯れて、岩肌には少しの水気もない。

 したたる汗をぬぐいながら改めて周りを見回す。四方を高いごつごつとした岸壁に囲まれた谷の底に、自分がいる。とりつきようもない高さの崖が視界を遮り、見ることができるのはただ、高い空ばかり。鳥の声もずっと遠くの方からしか聞こえない。

 ふと、自分が今いるのは、こんな場所なのだと思う。

 しばらくたたずんだ後、小さな黄色い花を咲かせる植物が藪になっているのが目に入る。道の途中にも生えていたのだが、注意を払わなかった。よく見てみると、カラシナだ。

 やせぎすでひょろりと長く、葉もほとんどわからないほど小さい。日本で見る青々とした野生のカラシナとはまったく似つかない。砂漠性の気候では、カラシナも必死で水分を保存するためにこんな姿になるのか。

 小さな黄色い花に口づけをして、そのエッセンスを感じとる。

 厳しい環境の中で、なお明るい色の花を咲かせるカラシナの花は、軽やかな光に満ちていた。

 三日目、再びトレッキングに出た。

 今度は峠への道を選ぶ。急な山道を登っていくと、驚くほど短時間の間にぐんぐん高度が上がる。汗をしたたらせながら速度を落とさずに登れば、一曲がりするたびに新しい景色が眼下に開ける。

 山の高みへと昇りながら体を動かし、汗を流すことで、滞っていた感情エネルギーが代謝され、自分の中でひとりでに考えがまとまり始める。

 僧院の食堂で同じテーブルにつく人々と交わす、とりとめのない会話。

 ハワイに住んでいる。やりがいのある精神的な仕事についている。自分のスケジュールはすべて自分で決める。いろいろな場所を旅行して回っている。楽しみは絵を描くこと、趣味は海の生物と泳ぐこと...。

 質問に答えて描かれる私の生活ぶりに、「なんて幸運な!」「すばらしい人生を築き上げたものね」と皆一様に口にする。

 自我によって定義された「自己」と世界の中に心地よく座っていた頃なら、そんな羨望のまなざしにも、少しばかりのナルシスズムとともにうなずいた。

 だが、今の自分は、長い時間をかけて築いてきた「思い通りの」人生さえも、昨日手にした小さな幸運と、何の違いもないことを知っている。それは聖書のヨブ記に描かれている通りだ。

 突然に世のありとあらゆる幸運を与えることのできる神は、同じくらい突然にすべてを取り上げることもできる。その幸運が正しい努力を通して築かれたものであれ、まったくの気まぐれ的な僥倖であれ、違いはない。

 魂が進化の階段を上るために必要ならば、いずれ幻であるところの物質的な獲得物や人格の要素を引きはがすことを、神はためらわない。

 そして私もそれを拒まない。それ以外に道はないとわかっているから。

 目に見える形で築かれたものは、結果でしかない。そして結果はゴールではないのだ。

 精神的な道程を歩む中で、自分が身につけた真の財産と言えば、このことを理解するだけの智恵だったと言えるかもしれない。

 自分から引きはがされようとしているのが、先に進むためにもう役に立たなくなった自己の外皮であることに気づいたなら、ただその過程に身を任せられること。地形の見えない足場の中で、ただ自分の中の中心点(自己の内に内在化された高い意志への信)だけを頼りに、歩を進められること...。

 藪の中からブウンと音がして、何かが飛び出してきた。宝石のように美しい、緑色のハチドリだった。人には人生の重要な曲がり角で目にするシンボル(象徴)がある。それは時に自然と一体になった高い自己からの道しるべだ。

 ハチドリは私にとってのそういうシンボルの一つだ。まったく予想もしない場所でこの鳥と出会い、驚かされたことが何度もある。輝く緑色の羽をしたハチドリは、まるで案内でもするかのようにしばらく山道を先導してくれた。

 所々に赤い、名前のわからない花が生えている。花の形はコロンバインにもちょっと似ているが、山肌をはうように伸び、山道の上に身を乗り出している姿は、ちょうど天の赤い花とったふぜいだ。

 花をつんで、とがった尻の部分を噛む。花びらはほのかに苦い。そして蜜は思いがけないほど濃い甘みがあった。

 人間の目に完璧に作り上げたと思われる人生。だがそれを神の目により完璧なものにするためには、いったんそれを形にしているものをはずして、ばらばらにしなければならない。ばらばらになったパーツが、より高い秩序のもとに、もう一度一つになるだろうことだけを信じて。

 そうだ、さなぎのなかの芋虫でもない蝶でもない生き物は、こんな感じを味わっているのだろうなと、ふと思う。

 谷底から見上げた時には、遙かな岸壁の上と見えた高台。そこから見下ろす光景は、昨日とはうって変わって美しく広々とした展望を与えた。スペイン風建築の僧院の建物も、遙かな眼下に小さく見える。

 こうして見下ろすと、昨日は荒涼とした砂漠性の環境と思われたものが、驚く量の緑で満たされていることに気づく。そして高所の風は、強い日差しを忘れさせるほどに涼しかった。

 この光景を記憶におさめ、そしてまた私は地上に降りていく。古びた自我の殻と、人生の中ですでに意味をなさなくなった自己の部分が静かに解体される作業の続けられる場所に。

9月某日

 航空会社から電話があって、なくした携帯電話が戻ってきた。どうもこの2か月半、ハワイアン航空の飛行機に乗って毎日ホノルルとロスの間を往復していたらしい。

 期を同じくして、再び物事が流れ出し、あちこちでつながり始める。それが何を意味するのかは知らないが、とりあえず仕事がはかどるのは助かる。

(2003年7〜9月記)

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精神世界での執筆活動について(感慨)

(2003年まで発行していたニュースレターを、メールマガジンに移行させるに際しての思い出と感慨)

 1994年頃、知人の紹介で『パワースペース』という今はなき名雑誌から執筆依頼を受けた。最初に書いた記事がよかったようで、それから定期の執筆依頼を受け負うようになった。
 雑誌への執筆は、テーマや字数の制約があったものの、毎回、取材やリサーチに時間をつぎ込むことができて、それなりに楽しく充実していた。
 この期間に書いた記事の中で一番の傑作は、ダニオン・ブリンクリーとのインタビューかなと思う。

 ちなみに日本で雑誌としてバックのフラワーエッセンス(バッチ・レメディ)についての記事を掲載したのも、ここが初めてだったと思う。
 最初の執筆者、日本ダウザー協会会長の堤裕二さんは「バッハの花療法」と呼んでいた。(Bachはドイツ読みでは「バッハ」。英語では「バック」と発音される。日本で普及している「バッチ」という読みがどこから来たのかは不明。)

 他方で同じ頃、一切の制約なしに自由に自分の考えを発表する場が欲しいと思い、1995年、『TERRA STELLA』を創刊した。部数は大して多くはなかったものの、なんだかんだといって一定数の購読者をもって7年にわたり続けてくることができた。
 友達からコピーを分けてもらっての「コピー購読」の人も結構いたようなので、読者の数はこちらで把握していたより多かったかもしれない。

 精神世界の中では硬派と言えた『パワースペース』が各方面から惜しまれつつ休刊となった後も、連載ものも含め、複数の精神世界系雑誌に記事を執筆する機会があった。
 中には書いているうちに雑誌とのそりが合わなくなり(最初は比較的見識をもった雑誌だと思ったのだが、そのうち怪しいニューエイジ・ビジネスや新興宗教っぽい広告がたくさん載るようになり、それに合わせて編集の方向も変化していったようで)、どうにも記事が書きにくくなって、ずるずると原稿の質が落ちていったこともある。案の定しばらくして連載打ち切りになり、正直言ってほっとした。

 雑誌の記事とは書き手が一方的に書けるものではない。雑誌の編集姿勢、そして編集者との関係という器の中でこそ、記事は生まれる。
 そうこうするうちに、ここ2年ほどは教える仕事の方が忙しく、何度かあった雑誌原稿の依頼を断るうちに、やがて依頼がこなくなった(笑)。

 同時に『TERRA STELLA』の内容がここのところ、やや閉鎖的になってきていることが、日増しに気になっていた。私的なニュースレターという性質上、読者の大半が私の活動に興味をもってくれていることが明らかなため、それに甘えてしまうことが増えてきたこともあるだろう。
 私的な発行物なのだし、新しい購読者もぽつぽつと続いているのだから、別にそれでもいいと開き直ればそれまでだが、このところ、自分の中の「よい読み物を書き上げたい」という創造的欲求が強くなってきた。
 そしてそのためには、そのための新しい器が必要なのが明らかだった。

 雑誌という器(うつわ)があってこそ、その関係性の中から雑誌記事が生まれる。個人発行のニュースレターのように、雑誌とその編集者という存在が介在しない場合、器は書き手と読者の直接的関係によって形成される。
 読者が個人的な支持者に限られてしまうと、執筆内容は必然的に閉鎖的、マニア的になる。これに対して幅広い読者層は、書き手に、一般性があり、わかりやすく、内容に付加価値(実用性、読む楽しみなど)のある記事を要求する。

 雑誌原稿の制約を受けずに、このような読者層を得るための媒体を模索していて、メールマガジンという形式に行き当たった。

 無料の私的メールマガジンの中にはもちろん、単なる個人のぼやき的内容や宣伝チラシ的ものもある。
 だが有料のメールマガジンでは、発行会社との契約によって規定の定期発行が義務づけられるし、内容がつまらなければ読者は集まらない。この意味で、「定期的に原稿を仕上げて発行する」「レベルを落とさず読み応えのある記事を書く」といういい意味での圧力を与えてくれる。
 さらに、このような圧力を自分に課して定期的に連載記事を書き下ろしていくことで、いずれ本にまとめるための原稿をためていこうという目論見もある(笑)。

 これらを理由に、また新しく生まれ変わらせるために古いものを手放すという意図のもとに、これまでの慣れた形式であるペーパー版を手放して、オンラインのメールマガジンへと移行することにした。
 「新しい葡萄酒は新しい革袋にもれ」というのは聖書の言葉だが、この言葉に込められた知恵は古びることがないと、これまでにも幾度思ったことか。

(2003年1月記)

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June 25, 2005

選択

 「風邪薬、恐るべし」の記事で、日本で滞在中に熱を出して風邪薬を飲んだ時の体験について書いた。

  ここで、なぜ私が定期的に発熱し咳が止まらなくなるような羽目に陥るのかということについても、触れておこうと思う。

 私の「咳」については、長く定期的にクラスに出て いる人たちには気づかれている。つっこむなら、「健康管理に責任をもて」等と偉そうなことを言いながら、なぜ自分自身、気管支の病気から完全に自 由なることができないでいるのか、ということだ。

 私は呼吸器が弱い体質に生まれついた。物心ついた頃にはすでに、外から帰った らまず吸入器を使うことを教えられていた。よく祖父といっしょに、旧式の霧吹き型の吸入器を使っていた記憶がある。

 寒い季節にはそれでも咳が激しく、母が様々な民間療法を試してくれ、鍋いっぱいに炊かれた銀杏 を何日も食べさせられたこともある。しかし咳は止まらなかった。

 学校に行きだしてからも毎冬、必ず風邪をこじらせて気管支炎になった。寒い季節はいつも咳 をしながら暮らし、1日口をきかずに過ごすような日がよく何日も続いた。声を出すとその刺激で激しい咳が出て止まらなかったからだ。

 慢性気管支炎の 経験のある人は知っているだろうが、2週間、3週間も激しい咳をしていると、のどや気管がつねにひりひり痛むだけではなく、体中がみしみしと痛み、咳を することだけに体力を費やして過ごすことになる。

 他に何をする気力も体力も残らず、ただ咳をするためだけに費やす冬は、毎年憂鬱な季節だった。

 さ て、子供時代から十代後半まに私を苦しめた慢性気管支炎だが、留学のためにカリフォルニアに移ったとたん、治ってしまったのである。転地療法の 効果ここに極まれり、といおうか。

 カリフォルニアで過ごす初めての冬は、人生で物心ついてから初めて咳をせずに過ごす、「天国のような」冬でもあった。

 南カ リフォルニアの乾燥して暖かな気候がよかったのかとも思った。しかしその後東部に移り、日本と同じように寒暖の激しいバージニア州に移り住んでも、時々普通 の風邪にかかることはあっても、気管支炎は復活しなかった。

 この10年ほどの期間は私の呼吸器にとって幸せな時期であり、ちなみにそれは日本にまったく足 を踏み入れなかった時期と一致する。

 それから気管支炎が初めて再発したのは、バーバラ・ブレナンの来日に付き添い、2週間ほど日本で過ごした時 だった。滞在の終わり頃から咳が出始め、帰る頃にはしっかり気管支炎になっていた。

 それはアメリカに帰ってじきに治ったが、その翌年の来日から、日本で一 定以上の時間を過ごすと咳が出始めるというパターンが始まった。

 自分のワークショップを教え始るようになってからは、日本から帰ると発熱し、炎症が徐々にのどから気管支 の深いところに降りていって慢性化するというパターンができて、それが何年か続いた。

 2か月も咳が止まらず、疲労骨折で肋骨にひびを入れたこともある。
 昨年あたりから発熱は起こらなくなってきたので、ついにパターンを克 服することができたかと喜んだのもつかの間、この1月の派手な発熱と咳となった。

 物質レベルに話を限れば、何をどうしても私の呼吸器と日本の環 境は相性がよくないのである。

 たばこの煙ざらしにされることも、もちろん大きい。アメリカでは完全にたばこの煙から遮断されて過ごすことができるが、日本 では道を歩いていても煙を吸わされるし、レストランや新幹線の「禁煙席」ですらたばこの煙が漂ってくる。

 もちろん、限られた日程を有効に使うために詰め込 みでクラスを行うため、7〜8日間、1日6時間かそれ以上、休みなしにのどを酷使しなければならないこともある。

 よく観察している人は、東京でのクラス の日を追って、私の咳が頻繁になる過程に気づいているだろう。

 「自分の健康管理に責任を持つ」ということからすれば、私の場合、日本に足を踏 み入れるのは止めるべきなのである。

 別に日本に行かなくとも、ヒーラーとしても教師としても仕事を進めていくことはできる。

 アメリカ国内だけで仕事をするオ プションというのも、私のガイドたちは持っているようで、このオプションをちらつかせるかのように、仕事のオファーは、アメリカ側でヒーリングやフラワー エッセンスのクラスを教えることから、果てはラジオのホリスティックヘルス関係のトークショーDJに到るまで、定期的にやってくる。

 だが私は日 本を自分の「持ち場」として選んでいる。そしてその仕事に集中するため、こういったオファーをいつも断ってきた。

 地球上に深刻な問題を抱えた国々はたくさんあ る。しかしその中でもその病理をよく理解するがゆえに、またこの生での私の魂のゆりかごであった土地であるがゆえに、そうしてまた次の時代の礎を築くため の大切な要素をもった国の一つであると信じるがゆえに、たとえ自分の健康にとって最良の選択とは言えなくとも、日本を訪れ続け、そこで仕事をすることを選 んでいる。

 「ハートはハートにとっての理由をもっている。それは理性によっては理解しえぬものである」(ブレーズ・パスカル)。ならば私のハートは日本に 戻り続ける理由をもっている、そしてそれは理性的判断だけで割り切れぬものである。

 以前、執拗な咳について先輩のヒーラーに相談した時、「長く執拗に続く咳は『嘆き悲しみ』を表しているけれど、あなたの嘆き悲しみは個人的なレベルのものではないのね」と言われたことがある。それにも一理はあるかもしれない。

  話を精神的な方向に移すと、もう一つ挙げることのできる理由がある。それはロザリン・ブリエール師が「のどのチャクラのアップグレード」と呼ぶ現象だ。

 人々 の前で精神性や真理について語る仕事につく者は、絶えることなく自己ののどのチャクラを鍛え、広げることが要求される。そしてとくに集中的に成長が必要とされる期 間、そのストレスがのどの病気として出やすいというのである。ブリエール師自身、のどの故障が続いて苦しんだ時期があったらしい。

 定期的に来日するようになってからの過去7年は、私にとって、集中的どころか過激な変化と成長の過程で、のどのチャクラにとっての圧倒的なストレスであったのは事実だ。

 今のような因果な仕事に就く前から私のことを個人的に知っている人たちには、無口で内向的で人と交わらず飄然としている、「哲学者」か「神秘主義者」のアーキタイプそのものだったような人間が、人の前に出て話をするような仕事に就くなど想像もつかなかったのである。

 世の中に は人前に出て世間の注目を引くこと自体が喜びである人たちも多いようだが、幸か不幸か私はそういうタイプではない。

 レクチャーに出席した昔の知 人から「一体どこでパブリック・スピーキングを学んだのか」と訊かれたこともある。そんなものを学んだことはない。ただ、背後に立つガイドたちに後押しさ れて、こんな仕事に飛び込んだ。あとはこの混乱した世界の中に立って、語らなければならないと情熱をもって感じることを語るのみ、時にガイドたちのために口を 貸し、その言葉の忠実な通り道となるのみ。

 だが、その過程がストレスでなくまた負担でなかったと言えば、嘘になる。
 この7年間の急激な成長 と変容の過程の中にあって、一個人として静かに暮らしたいという思いと、地球のために自分のできるベストを尽くしたい(そのためには社会に出て活動しなければならな い)という思いの葛藤から、私自身の魂はいまもって完全に自由であるとは言えない。

 孤高のアルケミストから市井の説教師・活動家への変化は、それが憧憬に 導かれてのものであれ、ストレスや葛藤無しに通過するには大きすぎる変化だ。(もちろんストレスや葛藤のない変容過程などというものは存在しない が。)そしてそのストレスをほぼ一手に受けているのが、私ののどチャクラであるのは疑いがない。

 のどの第5チャクラの属性には「秩序」「高い意志」 「選択と決断の力」「青写真を引く能力」「(ヴィジョンを)実現する能力」「言葉の力」などがある。

 以前の自分では「言葉の力」は「沈黙の力」の面が前に 出、「自己表現」はもっぱら手(絵画やクラフト)や書かれた言葉を通してなされていた。

 そこに「言葉と声を通しての自己表現」が「社会的な活動」とともに 加えられ、それはいまも私の第5チャクラを広げ、鍛えてつつある。

 筋肉が強くなるのは、運動の負荷によって筋繊維が壊れ、その後に修復された筋繊維が前よ り強く太くなることによる。同じように、魂とエネルギーシステムにストレスをかけることなしには、成長は起こらない。

 その意味では、私は頻繁なのどの故障は、ちょうど激しく運動をした後の筋肉痛のような「成長の痛み」として、感謝をもって受け取らなければならないのだろう。

 ある意味でそれは、自分自身で選んだ 道のりに対する洗礼である。

(2002年1月記)

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June 23, 2005

ヒーリングを通しての奉仕活動(カナダ)

 カナダから帰ってきて、いまだやや気分高揚状態。こんなに楽しく充実した時間を過ごしたことは(学生たちを教えている間を別にして)近年あまりない。

 11月、なにをしに暖かなフロリダを出て北風の吹くカナダ(緯度だけ見れば北海道よりさらに北)まで出かけてきたかというと、ロザリン・ブリエール師の率いるヒーラーのグループに加わり、社会奉仕プログラムの一環として、先住部族の居留地にヒーリングを行いにいっていた。

 私がかつての勤め先のヒーリングスクールを辞めてからブリエール師のもとに出入りしてきたのは、この奉仕プログラムに参加し、同じようなプログラムを日本で始めるためのノウハウを学びたいというのが理由の一つにあった。

 毎日朝は9時半に集合。その日のブリーフィングや先日からの注意事項などの伝達を受け、10時を過ぎた頃から仕事が始まり、遅い日は夜11時頃まで、食事時間を除いて休みなしでヒーリングを行う。

 先住部族の人々でありさえすれば、誰でも無料でヒーリングが受けられる。(先住部族は日本ではまだ「インディアン」とも呼ばれているが、「ネイティブアメリカン」、もっとも正しい呼称は「ファースト・ネイション」。)

 「患者が1人でも残っている限り真夜中になっても仕事を続ける」というのがコミットメントだったが、さすがにそんなに遅くまで待つ人はいなかった。重症過ぎて会場に来られない人や入院中の人のためには、2組ほどのチームが往診治療に派遣された。

 選ばれて参加したヒーラーは5人1組でチームを組み、5日間で治療した患者のべ800人以上。

 肩こり、事故の古傷、喘息などから糖尿病や胆石、白内障、ガンの療養中、麻薬やアルコール中毒から回復中の人、生後数ヶ月の赤ちゃんからお年寄り、地元のギャングにいたるまで、ありとあらゆる年代層と病気が出そろう。

 集まったヒーラーも多くはプロとして仕事をしている人だが、各自のスタイルや方法論の違い(そしてエゴやプライド)を手放し、チームとして一体となり、一人の患者のために自分の持ち場を守って最善を尽くすことを学ぶ。

 一定水準のヒーラーがなにしろ5人がかりで治療に当たるのだから、効果はパワフルだ。患者一人につき40分以内がターゲットのセッション時間。そして多くの場合、即座に目に見える形で症状が軽減していく。

 とくに私にとって貴重だったのは、訪れる人々のほとんどが「(アメリカではやっているらしい)エネルギーヒーリング」などというものについて何も知らず、ただ知り合いからの口伝えで「病気が治るらしい」とだけ聞いてやってきたということだ。

 ヒーリングについて前もっての知識は何もなく、ただ「病気が治るかもしれない」というシンプルな期待だけを抱いてテーブルに横たわる人々。そしてそういった人たちの症状を現に軽減させあるいは回復に導けるという、ある意味では純粋な形で病気治療に携わる喜びである。

 そしてもちろん、アメリカでもカナダでも200年以上の迫害の歴史をくぐり抜け、今も社会的に苦闘するファーストネイションの人々、その子供たちやお年寄りという、もっとも切実に必要とされるところに癒しのエネルギーを届けることができるという喜びもある。

 会場となったのはスクワミッシュ族の居留地内にある体育館。

 急ごしらえに並べられたテーブルやイスの回りを、順番待ちに退屈した子供たちが叫びながら走り回るわ、セッション中のヒーラーたちの後ろに立って作業をじっと観察する人はいるわ(ハンズオンヒーリングというのは、先住部族の人たちにとってもかなり怪しいものなのである)、その中をライムグリーンの運動靴を履いたブリエール師が元気に走り回り、テーブルごとに注意や指示を与えて回る。

 かつて自分が勤めていた大手のヒーリングスクールでは、会場からステージ、イスの並び方一つに到るまですべて完璧に設定され、美しい音楽のかかる「スピリチュアルな空間」の中でヒーリングをするのが当たり前だった。

 だが、自分が本当にいたかったのは、この体育館のような雑多な環境の中で、朝から晩まで立ちっぱなしで病気の人々と接し、その痛みをやわらげ、より大きな癒しのサイクルの一部となれる、そういう場だったのだと改めて思った。

 そしてこういう形、こんなレベルで仕事のできるヒーラーを10人でも20人でも日本に育てることができれば、幸せだと思った。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

アッシジの聖フランシスコの祈り

主よ、我を汝の平和の使いとなしたまえ
憎しみのあるところに愛を
苦痛のあるところに許しを
不和のあるところに調和を
疑いのあるところに信頼を
誤りのあるところに真実を
絶望のあるところに希望を
悲しみあるところに喜びを
暗闇のあるところに光を
もたらさんがために

慰められることよりも慰めることを
理解されることよりも理解することを
愛されることよりも愛することを
我に求めせしめたまえ

与えることにより 人は受けとり
許すことにより 人は許され
死ぬことを通してこそ
人は永遠の生に生まれ変わらんがためなり。

(英語テキストからの翻訳/王由衣)

(2000年11月記)

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